コラム
自然への眼 ―ドストエフスキイ、そしてイエス―
(撮影:芦川)
前回は草木への愛を生涯貫いた牧野富太郎について取り上げた。これらを記している間に、二十代の自分がドストエフスキイに引き付けられた一つの場面と言葉が鮮やかに心に蘇ってきた。『悪霊』(1872)に於いて、青年キリーロフが一枚の木の葉について語る次のような言葉である。
「あなたは葉を見たことがありますか、木の葉を?
(略)
僕は最近黄色い葉を見ました。
緑がわずかになって、端のあたりから腐りかけていました。
風で運ばれて来たのです。
僕は十歳の頃、冬、わざと目をつぶって、木の葉を思い描いてみたものです。
――葉脈が鮮やかな緑の葉、そして太陽が光り輝いている。
目を開けてみると、信じられない。余りにも素晴らしいからです。
そしてまた目をつぶる。
(略)
アレゴリイ(譬話)などではありません。
ただの木の葉、一枚の木の葉のことです。
木の葉は素晴らしい。
全てが素晴らしい。」
(『悪霊』、第二部5)
「全てが素晴らしい」――この言葉を受けて、キリーロフと相手のスタヴローギンとの会話は木の葉から離れ、この作品の底を流れるニヒリズムの問題に移行し、ドラマも二人が自らの命を断つという悲劇に向かうのだが、今はこの問題に立ち入ることはやめよう。
当時の私は、木の葉一枚が持つ素晴らしさについて語る青年キリーロフの、そしてドストエフスキイの自然観察の鋭さに舌を巻かされたのだった。この言葉は「悪霊」が跳梁する闇の中に、一瞬天上から響く詩のように感じられ、すぐさま私は外に出て桜の木の葉を拾い、キリーロフの言葉を重ねながら、葉脈を日にかざして眺めたことを思い出す。木の葉とその葉脈一本一本が宿す絶対の美と力と聖性――その素晴らしさの認識を基に思索をし、創作をするドストエフスキイの精神の奥深さを思わざるを得なかった。驚きと感動は今も変わらない。
1878年 ロレンコーヴィチ撮影
改めて振り返る時、自然について余り描かないと言われるドストエフスキイは、実は多くの作中人物たちに見事な自然観察をさせ、そこから作品の核心に迫る認識と思想を表現させていることに気づかされる。例えば遺作『カラマーゾフの兄弟』である。主人公アリョーシャが編纂した師ゾシマ長老の伝記では、自然の美と力を通して顕れ出る神の聖性、「活ける神」の臨在感覚が次々と表現されてゆく。その一つがゾシマ長老の青年時代のエピソード、彼の回心体験の回想だ。軍隊に勤務し放蕩三昧の生活を送っていたゾシマは、ある女性を巡って、嫉妬ゆえにその婚約者を激しく侮辱してしまう。
翌日、決闘の朝、目覚めた彼の周りには素晴らしい自然が展開していた。
「既に夜が明けかかっていた。
私は突然起き上がった。もう眠る気になれなかった。
窓の方に歩いてゆき、開け放った 。
――私の部屋は庭に面していたのだ――
見ると、太陽が昇るところであった。
暖かく、 素晴らしく、小鳥たちがさえずり始めていた。」
(『カラマーゾフの兄弟』、第六篇二C)
素晴らしい夜明け。しかしゾシマの内では「何か恥ずべき卑しいこと」が蠢き、心は落ち着かない。決闘への怖れではない。間もなくその原因は、彼が昨夜従僕アファナーシイの顔面を「野獣のような残忍さ」で二度も殴りつけ、血まで流させてしまったことだと気づくのだった。「鋭利な針」が心を刺し貫く。呆然と立ち尽くすゾシマの周りでは、
「太陽が輝き、木の葉たちは喜び煌めき、そして小鳥たちは、
あの小鳥たちは神を誉め讃えている・・・・・」
(同上)
涙に暮れたゾシマの心に、亡き兄マルケルの思い出が甦る。
若くして死ぬ間際、兄は自分を始めとする全ての人間が万人万物一切に対して罪ある存在であり、その罪に気づきさえすれば、直ちに楽園(ライ)が訪れるのだと涙ながらに説き、母や召使や小鳥たちにも赦しを請うていたのだった。
ゾシマはアファナーシイの足元の床に額をこすりつけ、赦しを求め、決闘の場に赴く。
相手の弾が外れ、ゾシマが撃つ番となる。彼は銃を投げ捨て、張り裂けんばかりの心で叫ぶのだった。
「皆さん、周りを見渡して神の恵みをご覧下さい。
晴れ渡った空、澄み切った空気、柔らかな草、小鳥たち、
汚れを知らぬ素晴らしい自然。
ところが我々は、我々だけは神を知らず愚かで、
人生が楽園であることを理解していないのです。
と言うのも、我々が理解しようと欲しさえすれば、
楽園はたちどころに美しい装いを凝らして出現し、
私たちは抱き合って涙にむせぶのです・・・」
(同上)
極めて平明だが、私はこれがドストエフスキイ文学の究極行き着いた所であり、彼の自然観ばかりか人間観と世界観、そして宗教観の核心であるとさえ考えている。前回見た牧野富太郎の言葉もまた、自然が宿す素晴らしさ、その美と力と聖性を心から賞讃する点で、ドストエフスキイと同じ方向を指し示すものと言えるであろう。
「アネモネ」 (画集『花のある風景』より)
佐藤 京
最後にドストエフスキイがゾシマ長老の言葉の原点として置いていたと思われる言葉を二つ、
新約聖書の中で確認しておこう。
「山上の説教」として福音書記者マタイが伝えるイエスの言葉である。
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、 太陽をのぼらせ、
正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。
兄弟だけにあいさつをしたからとて、
なんのすぐれた事をしているだろうか。
そのようなことは異邦人でもしているではないか。
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい」
(マタイによる福音書、第五章43-48)
「それだから、あなたがたに言っておく、
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。
まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えて 見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、
神はこのように装って下さるのなら、
あなたがたに、それ以上よくして下さらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、
あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。
あなたがたの天の父は、これらのものが、
ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(同上、第六章25-34)
(日本聖書協会、1984)
イエスに於いて「天の神」とは「天の父」であり、自然とはその「天の父」の「子」に対する愛と恵みの顕現そのものとして捉えられている。我々は決して難解で複雑な宗教的概念などではなく、「太陽」や「雨」、「空の鳥」や「野の花」、そして「天の父」や「父の子」などの極めて身近で平明な言葉を通して、イエスの神観と人間観と世界観の本質を知ることが出来るであろう。
《付記》
次回は芭蕉と自然について記したい。ここでは「物の見えたる光」という言葉を取り上げようと思う。また本ホームページの「ドストエフスキイ研究会便り」第一回目は、「『カラマーゾフの兄弟』の「光」について(その1)― ゾシマ長老とアリョーシャ師弟が表現するもの ―」というタイトルで間もなくUPの予定だが、ここでも「光」が問題となるだろう。自然と光――しばらくこの「光」という角度から考えてみたい。