コラム
あらたうと青葉若葉の日の光 ―芭蕉の自然、「物の見えたる光」―
「旅路の画巻」 柿衛文庫蔵 一巻
『芭蕉の真筆』(尾形功編 学習研究社 1993年)
私が初めて芭蕉を意識したのは高校時代のこと、石川啄木と共にであった。啄木の「やはらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに」という短歌と、芭蕉の「あらたうと青葉若葉の日の光」という俳句にほゞ同時に出会った私は、両者に感動させられると共に、その違いにも強い興味を抱かされたのだ。共に早春の新緑を見事に詠い取っている。しかし文学青年を気取っていた当時の私は、望郷の歌の背後に隠された啄木の悲しみに思いを馳せるよりも、「泣けと如くに」の表現を露骨過ぎるセンチメンタリズムと感じたのだ。一方芭蕉の俳句も、早春の日の光を浴びて輝く新緑を、「あら」という間投詞(感動詞)と「たうと(貴し)」という形容詞で捉えていて、一瞬「あれっ」と思わされる。しかし決して甘さに流れることはなく、これを「青葉若葉の日の光」と三つの平明な名詞を連ねて受け止め、春の命の輝きを上品かつ透明に捉えていると思われた。今の私は、啄木短歌のセンチメンタリズムをむしろ評価し、そこに深い味わいを見出し得るように思う。だがこのことは別の機会に取り上げよう。
今回は芭蕉の俳句によって、私が自然の宿す奥深さと神秘に目覚めさせられた幾つかの段階を、二十代から四十代まで振り返ってみたい。「芭蕉論」を記そうというのではない。芭蕉を敬愛する一人の人間の、彼の俳句との出会いについての小さな回想記、備忘録の試みである。
「あらたうと青葉若葉の日の光」。この句への感動の延長線上で、私は浪人時代、『野ざらし紀行』(「甲子吟行」)の全文を暗唱し、「野ざらしを心に風のしむ身哉」や「猿を聞人捨子に秋の風いかに」、更には「義朝の心に似たり秋の風」を始めとする、悲壮感溢れる芭蕉の俳句・俳文に心を奪われたのだった。その後二十代から三十代にかけて、ドストエフスキイの世界に踏み込み、「闇と光」の混沌に翻弄されていた私が最も望み、かつ得られずに苦しんだのは、人間に対する、世界と歴史に対する、そして自然に対する認識の透徹、あるいはその前提としての感性の鋭敏化という課題であった。これを見事に成し遂げた人物として、芭蕉が強く意識されたのだ。だが二十代の私は、芭蕉を意識すると言っても、心が向いたのは悲壮感溢れる作品ばかりではなく、極めて平明で理解し易い俳句だったことも事実である。例えば以下に挙げる三句である。
春なれや名もなき山の春霞 (野ざらし紀行、貞享二年)
山路来て何やらゆかしすみれ草 (同上)
よくみれば薺(なづな)花さく垣ねかな (続虚栗、貞享三年)
自然と向き合う芭蕉の心に、「名もなき山」や「すみれ草」や「薺の花」が宿す素晴らしさと神秘が、きっと静かにやさしく沁み入ったのであろう。そして私の心にも、静かにやさしく沁み入って来たのだ。
「 甲子吟行画巻 逢坂山」(山路来て・・・)
『芭蕉の真筆』(尾形功編 学習研究社 1993年)
三十代、私の心に強く留まり続けたのは次の五つの句であった。
明ぼのやしら魚しろきこと一寸 (野ざらし紀行、貞享元年)
海くれて鴨のこゑほのかに白し (同上)
花の雲鐘は上野か浅草か (続虚栗、貞享四年)
何の木の花とはしらず匂(にほひ)哉 (笈の小文、元禄元年)
するが地(ぢ)や花橘(はなたちばな)も茶の匂ひ (炭俵、元禄七年)
最初の二つは「色」が、次は「音」が、他の二つは「匂(におひ)」が詠われた、どれも平明さの内に奥深い味わいを持つ句ばかりである。今見ても、これらは二十代に愛唱した親しみ易い俳句の延長線上にあることがよく分かる。当時の私には、そして今もそうなのだが、自然を凝視する芭蕉の眼に耳に鼻に、つまりはその全感覚神経に、対象がその本来の姿を素直に顕し出すものと思われ、しかもそれを的確に感受し、僅か十七文字に平明に言い留める彼の芸術的才能に驚きと羨望を禁じえなかったのである。極めて身近で見慣れた対象と向き合いながら、哲学的・宗教的認識とも連なる深みを以って、その本質に迫り得る「芸術」というものに急速に関心が向かったのが、二十代後半から三十代であった。芭蕉に導かれ、また恩師に導かれて、ダ・ヴィンチやフェルメール、そして倪雲林や梁階や徽宗皇帝の絵画世界に強く惹かれて行ったのもこの頃である。しかしこれら芸術家たちが生み出す奇跡的とも魔術的とも言うべき神韻縹緲たる作品に心を動かされるものの、その裏に秘められた苦闘、骨身を削る克己・努力について、そして彼らが与えられた類稀な才能について、私は未だ十分に理解していなかったと思う。
なお上に挙げた「花の雲鐘は上野か浅草か」について一言。
「東京の空は桜で埋めればいい」とは、前々回取り上げた牧野富太郎の言葉だが、その二百年前、芭蕉は既に江戸にその光景を見て、花の雲と寺院の鐘の音とを重ね、江戸の春の見事さを実に平明に詠っていたのだ。芭蕉にはこの前年にも、ほぼ同じ光景を詠った句がある。「観音の甍(いらか)みやりつ花の雲」(末若葉、貞享三年)。上野・浅草に数多くある寺院と、至る所に咲き乱れる桜とが朧に混ざり合い響き合い、いつしか江戸の町は仏の慈悲が顕れ出る目出度き有り難き春爛漫の様相を呈している。仏土現成――江戸の桜と鐘の音を向こうに置くと、芭蕉の感性はこの方向に動き出さずにはいなかったのであろう。牧野に直接「鐘の音」についての言及はない。しかし時空を超えて、牧野の心も芭蕉の心と響き合っていると考えたい。
「松尾芭蕉像」 小川破立画
早稲田大学図書館蔵
芭蕉の弟子・土芳が著した『三冊子』(元禄一六年)に初めて触れたのは三十代半ばのことである。中でも『赤冊子』には芭蕉俳諧の本質、創作の秘密・秘伝と言うべきものが次々と記され、学ばされることが実に多く、今も私の座右の書である。中でも当時、私の心には「物の見えたる光、いまだに消えざるうちに言ひとむべし」という言葉が飛び込んで来たのだった。「造化」(造物主)によって創り出された「物」(被造物)、つまり対象がその本質を「光」として顕し出すこと、その「光」を己を無にすることによって捉え、十七文字の一句に表現し切ること、そのために芭蕉は骨身を削って努力をしたこと、これらのことが見事な筆で記されているのだ。土芳とは別の芭蕉の弟子・去来も、句作にあたっての芭蕉の教えをこう記している。「句調ハずんバ舌頭に千転せよ」(去来抄)――私は、これら土芳や去来が伝える芭蕉の言葉が、哲学的・宗教的認識と芸術的創作に於ける究極の真実であり、真理に他ならないと思うようになったのだった。小さな塾の開設と呼応して、「物の見えたる光」を巡り、師と弟子たちが繰り広げる思索、「学びと創造の場」の伝統への尊敬と憧憬の心が強く湧き出たのもこの頃である。
『赤冊子』との出会い以来、私の芭蕉俳句への関心のあり方は大きく変わったように思う。つまりある句が、直接は自然界の草木や草花を取り上げ、具体的な「物」や「匂い」や「音」を詠うものでも、更にその奥に潜む神秘と本質、即ち「造化」から発される「光」をこそ求めるべきことがより強く意識されるようになったのだ。個体性と具体性の奥にある、真の意味での普遍性と抽象性、つまりは「超越性」をより強く問題とするようになったとも言えるだろう。それはドストエフスキイの作品や福音書との取り組みの進展とも呼応するものであり、この自覚は三十代から四十代を超えて、今も変わることがない。
芭蕉の俳句は千を超える。それら一つ一つが確実に「何か」を物語っている。しかし私の心に強く留まるものをここに挙げるには余りにも数が多く、またそこで彼が見たであろう「光」について十分に解説する力も、残念ながら未だ私にはない。最後に取り敢えず四十代、特に私の心に留まり続けた六句を挙げ、最初に記したように、私の前半生の芭蕉との出会いの回想、備忘録としたい。
あやめ生(おひ)けり軒の鰯(いわし)のされかうべ (江戸広小路、延宝六年)
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり (野ざらし紀行、貞享元年)
夏草や兵(つはもの)共がゆめの跡 (奥の細道、元禄二年)
先(まづ)頼む椎の木もあり夏木立 (猿蓑、元禄三年)
水仙や白き障子のとも移り (笈日記、元禄四年)
清滝(きよたき)や波に散り込む青松葉 (追善之日記、元禄七年)
「あやめ」、「木槿」、「夏草」、「椎の木」、「水仙」、そして「青松葉」 ―― 我々にはごく身近でありふれた自然界の草木・草花でしかないものが、芭蕉にとっては深い奥行きを持った「光」として顕れ出たのだ。
「みちのべの」自画賛 出光美術館蔵
『芭蕉の真筆』(尾形功編 学習研究社 1993年)
私の芭蕉との取り組みは今もなお続いている。機会があれば、五十代以降の芭蕉俳句との取り組みについても記したいと思う。彼が見出した「光」の一つでも、自らの感性で確かに受け止め、自らの言葉で確かに表現出来ることが私の夢である。