コラム
絶望の底で見つめた自然 ―復刊された詩集『いのちの芽』―
『いのちの芽』 表紙帯
この春、東京清瀬市にある国立ハンセン病資料館で開かれた特別企画展(ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち)に合わせて、70年ぶりに『いのちの芽』が復刊された。
戦後憲法が謳う基本的人権の尊重と、治療薬プロミンの登場により、それまで社会から有無を言わさずに隔離され、絶望と孤独の内に生きざるを得なかった療養所の患者さんたちに、新たな「光」への展望が開かれることになった。そしてその中から次々と生み出された作品を集めた詩集『いのちの芽』が、1953年、世に送り出されたのだ。しかしその後70年の間この詩集は再刊されることなく、「幻の詩集」となっていたのだが、資料館の学芸員である木村哲也氏が中心となり、企画展と共にこの詩集を復刊することで、新たに「ハンセン病の新生面」に光を当てる試みがなされるに至ったのである。
残念ながら私は体調のこともあり、この企画展を訪れることは叶わなかった。しかし木村氏による丁寧で的確な解説を始めとして、姜信子氏や西村峰龍氏による講演、小泉今日子氏による詩の朗読、更にはコンサート「青い鳥のハモニカ」等々、YouTube動画で配信された限りの情報は、自宅でゆっくりと拝見することができ、送って頂いた『いのちの芽』も、じっくりと読むことができたのだった。見事な構成の企画展であり、考えさせられることが実に多かった。
今回は当コラムで取り上げている「自然」、殊に自然が宿す「光」のテーマとの関連で、『いのちの芽』から五篇の詩を挙げさせて貰おう。これらの詩が表すものを前にして、私の舌足らずな解説などは不要である。皆さんが直接ぶつかり、測り知れない絶望と闇の底で、患者さんたちが如何に自然と向き合い、そこから如何なる「光」を見出したのか、自らの心に受け止めて頂きたい。
桔 梗 中本 一夫
暑熱の中に
培われた生命。
塵界の中に生きてきた私にとっては
かって見た事のない姿だ。
空を見た
海を見た
秋が流れている。
唯一本の茎に
唯一つの花。
雑草の中の
紫。
それは
涙の色でない
愁の姿でない
沈んでいくような色
思わず立止らせる姿。
ぱっちりと
眼をひらいて
秋の色を呼吸している花。
一九五二年九月
柊 館 祐子
空が晴れている
裸木が春風の中で
嬉しげに合唱しつつ
かげろうと共に躍り始めた
その中で
柊よ
お前だけは喜びを唱わないのか
その姿はいつもあおく堅く
空っ風土埃をかむって
無表情なお前なのだ
暗うつな緑よ
憤怒の棘よ
その裡にかくされた不屈と忍耐の魂
仲間の樹々が散ってしまっても
お前は烈しい寒風に
厳然――負けなかった
孤独孤高な柊よ
私は
お前に限りない親しさを覚える
お前はやがて
棘を持つ厚い葉かげに小さな花をつけ
ひそかにほろほろと
地面にその白い花をこぼす。
朝 顔 の 花 森 春樹
すべては夜 準備されていた。
見よこの
忍従の堆積。
せつなの命のかぎり
ひらいている
朝顔の花。
ただ一途に。
音もなく
呼吸づき
光をうけ
天にふるえている。
朱の衣。紫の衣。青の衣。
花は
光の滝をうけ
悔恨のかげなく
天に向かって
祈っている。
一九五二、一一、二〇
芽 志樹 逸馬
芽は
天を指さす 一つの瞳
腐熟する大地のかなしみを吸って
明日への希いにもえる
ひかりにはじけるもの
芽は
渇いている 飢えている
お前はもはや誰れのものでもない
(廻転する地球の風にゆれる
花のものだ)
便 り 小島 浩二
名物の島の桜が
咲いたと書こう
一時にパッと
咲いたと書こう
年毎に
美しく楽しいと書こう
病み疲れた身を耐えて
私も元気です と書こう。