コラム
樹木と雲と太陽 ―死を超えた光を求める青年―
最愛の妹さんとお母さんと双子の弟さんの相次ぐ死――T君が襲われた悲劇のことは、昨年『予備校空間のドストエフスキイ』に記させて頂いた。その後もお父さんや彼自身が突然体調を崩して入院生活を余儀なくされるなど、運命はT君に「これでもか!これでもか!」と試練を与え続けている。かくも辛い体験を次々と強いられる若者がどれだけいるのか? T君ならずとも、誰もが暗澹とさせられずにはいない運命の過酷さである。
この苦しみと涙の底で、T君が如何なる課題と取り組んでいるのか?――このことも拙著に記させて頂いた。そして前回、このコラムにハンセン病療養所から生まれた詩集『いのちの芽』の復刊について記し、この詩集から草花について詠った詩を選びながら、私は改めてT君のことを思わざるを得なかった。彼もまた悲しみの底で自然を見つめ、死を超えた「光」を求めて写真を撮り続けているのだ。『いのちの芽』から五篇の詩を挙げたのと同じく、今回はここにT君の写真八枚を挙げさせて頂こう。
上の左側の写真は、T君によれば、お母さんが亡くなられた翌日の夕方、「悲しみの中、訳も分からず空を見上げて撮った」とのこと。しかし『いのちの芽』に掲げられた詩と同じく、T君の写真についても、私が訳知り顔に多くの言葉を費やすことは控えよう。これらの写真とは、言葉の前に、まず直接自分の心で向き合うべきであろう。
今回は多くの写真の中、彼が見つめる空の雲と太陽、そして樹木に絞って紹介したい。涙を流しながら、ひとりT君が野山や公園を歩きつつ、シャッターに収め続ける自然の諸相――これらの写真も、ハンセン病患者の人たちの詩と同じく、絶望と涙の底からの「光」への希求であり、魂から湧き出た詩に他ならない。
牧野氏、ドストエフスキイ、イエス、芭蕉、ハンセン病患者の人たち、そしてT君――彼らの眼と心が捉えたものは、それぞれに樹木や草花や雲や太陽が持つ本来の姿を映し取るものであり、我々に自然に向かうべき本来の姿勢・視線を教えてくれる導きの杖と言うべきであろう。