コラム
研究会「親鸞とドストエフスキイ」
親鸞聖人像《奈良国立博物館》 ドストエフスキイ肖像画《ベローフ画》
6月中旬、至る所に紫陽花の花が咲く頃、本郷の親鸞仏教センターで研究会「親鸞とドストエフスキイ」が開かれた。コロナ禍の二年余はズームでの研究会を余儀なくされ、メンバーが直接顔を合わせるのは久しぶりのことだった。三十代から四十代の気鋭の学僧・研究者が五人、私を加えて六人が、『教行信証』と『カラマーゾフの兄弟』を基本テキストとして討論し合う研究会であり、この場の雰囲気はアカデミズムとは違う実存的かつ宗教的なもので、厳しくも自由であり、私にはかけがえのない学びの場となっている。今回も「ゾシマ伝」の後半を巡り、活発な意見の交換がなされ、充実した一日であった。
この研究会の出発点は、六年前の2017年3月、親鸞仏教センターで開かれた「現代と親鸞の研究会」に於いて、 私が「ドストエフスキイ、イエス像探求の足跡」というタイトルの下にお話をさせて頂いた時に遡る。浄土教とキリスト教、親鸞とドストエフスキイという、東西の代表的な救済宗教とその代表的な思想家に於いて、果たして如何なる問題が基本的なテーマとなり、また現在、それぞれの世界に如何なる課題が存在するのか? ―― 私の発表だけで、これらのことが言い尽くされることも、解き明かされることも当然あり得ず、会の後に出席者の間で、自ずと更なる研究と討論の場を持つことに話が進んだのだった。
この研究会のことを説明する時、私がしばしば挙げるのは、『罪と罰』の登場人物マルメラードフのことであり、この存在に対してセンターの皆さんが示された強い反応のことである。
酒に溺れ、家族を貧困の底に突き落とし、娘のソーニャを売春婦の身にまで追いやってしまった上に、なお彼女の許に酒代をせびりに行く「恥知らず」。自らが招いた地獄の底で「どこにも行き場がない」と呻くマルメラードフ。その一方で、この男は「最後の審判」の日、再臨のキリストが「豚にも等しい」自分を救ってくれることを夢見る存在なのだ。マルメラードフという名はマーマレードに由来する。この甘ったれた、全くの甲斐性無しの卑劣漢。『罪と罰』の読者で、彼を嫌う人は多い。しかしこの男の生と言葉の全てを、「罪悪深重」「煩悩具足の凡夫」の自覚の上に、「彌陀の本願」への信を生きる浄土教の皆さんはストレートに受け止めるのだ。マルメラードフこそが、我々人間の原姿であるとして。
ドストエフスキイと親鸞が見つめる超越世界が如何に深く響き合うか、具体的な実感として体験させられた時であった。ここから如何に熱い議論が展開されるに至ったか ――この会に於ける私の発表と、それに続く質疑応答の記録については、やがて「ドストエフスキイ研究会便り」に掲載する予定なので、機会があったら是非ご一読頂きたい(※)。
※この報告は、親鸞仏教センター発行の『現代と親鸞』第37号(2018)に掲載された後、同センターのご厚意により、河合文化教育研究所の「ドストエフスキイ研究会便り」「講演記録」にも掲載された。こちらをご覧になりたい方は、以下にアクセスを。
➡新着情報 | ドストエフスキイ研究会 / 河合文化教育研究所
「ドストエフスキイ研究会便り(19)(20)」(2021)
これ以外にも質疑応答の場では、「父親殺し」や「神殺し」 や「釈迦殺し」という、ドストエフスキイと親鸞両世界の奥底に存在する「罪」 の問題や、それに対する「裁き」や「救い」の問題も取り上げられたのだった。研究会「親鸞とドストエフスキイ」はこの延長線上にあり、今もなお二つの宗教世界の異同を巡って、毎回熱い議論が続いている。
キリスト教と浄土教、ドストエフスキイと親鸞――これら本来時間と空間を大きく隔てて展開してきた二つの宗教世界、「超越」を巡る二つの精神世界の間で、この先如何なる相互理解と交流が可能となるのか? このことが明らかとなるまでには、恐らくまだまだ膨大な時間が必要とされるであろう。しかし私は、ここに集う若い皆さんの真摯さと明るさが、必ず両世界の間にある壁を打ち破り、将来、日本の「超越」世界に関する思索に大きな役割を果たしてくれるものと確信している。
この研究会で私は、数年前から「『カラマーゾフの兄弟』の光について」というテーマで問題提起をさせて頂いている。ドストエフスキイの遺作『カラマーゾフの兄弟』(1980)は、人間と世界とその歴史を貫くものを、「光と闇」・「信と不信」・「肯定と否定」という極性の分裂として捉え、この両極間で展開する複雑な人間ドラマを具体的に、しかも激しく描き出す作品である。ここに登場する数多くの人物たちの中でも、殊にゾシマ長老とその弟子のアリョーシャ二人は、分裂を超えた「光」と「信」と「肯定」を体現する人物として描き出されている。だがゾシマ長老が、そしてアリョーシャが表現する「光」と「信」と「肯定」の精神とは、そもそも何なのか? それは何処から、また如何に生まれ出るものなのか?そしてその「光」は如何に我々にも注ぎ得るのか? ―― 改めてこのような基本的な問いの前に立ち、じっくりと考え、それを親鸞の浄土教世界に於ける「光」と突き合わせてみたいと思うのだ。この取り組みの経過は、やがてこの「ドストエフスキイ研究会便り」にも順次掲載してゆこうと考えている。
第一回目は、この春に幕を閉じた河合文化教育研究所の「ドストエフスキイ研究会便り」の最終回(26)に掲載している。これを加筆修正した上で、間もなくこの新たな「ドストエフスキイ研究会便り」に掲載の予定である。