コラム
断捨離体験
西田幾多郎「無」
『西田幾多郎遺墨集』一燈園 燈影舎 1977
この春、
三年間にわたる断捨離、
具体的には四つの断捨離が終った。
一つは故郷の土地と家屋と家財道具の断捨離。
一つはそこに保管していた恩師と自分の書籍の断捨離。
一つは所属していた研究所の閉鎖という断捨離。
そして上の三つに伴う様々な人間関係の断捨離。
それぞれに少なからぬ決断が必要だった。
湧き起こる様々な思いを断ち切る必要もあった。
ここから学ばされたことは少なくない。
以下にそれを簡単に記し、人生の歩を次に進めたい。
これらの断捨離で何よりも強く心に突き刺さったこと、
それは全ての物が取り去られた後に現れた空間のリアリティである。
家財道具全てが、そして仏壇と神棚が取り去られた生家。
家屋が解体撤去され、「売地」となった「先祖代々」の土地。
書籍・書類が運び去られた棚と部屋、そして研究室。
そこに現れたのは文字通り「空っぽ」の空間であった。
人間関係については、ここでは記さない。
自分は「空」とか「無」とかいう言葉に長い間親しんできた。
しかしこれらが頭の中の単なる言葉・概念であることを止め、
突如具体的な現実として目の前に姿を現したのだ。
そのリアリティを如何なる言葉で表現し得るのか?
意外なことに、それは「解放感」と言うしかないもの、
明るい開かれた透明な感覚であった。
そこに寂しさとか懐かしさとか後悔とか、
後ろ向きの感覚が滞留し続けることはなかった。
これが本来の場であり、
自分はそこに立ったのだという感覚、
この開かれた透明感が自分を領し、背を押したのだ。
『コヘレト書』が繰り返し説く「空の空」、
『般若心経』がその核心とする「色即是空」、
これらが伝えるとされる虚無感や無常観はここにはなかった。
私に与えられたのは、生の明るさと透明さの感覚、
『罪と罰』でマルメラードフが言う「行き場のないこと」、
「無」と「空」の内に身を置くことの必要と必然、
そこに立って積極的に生きることを促される透明な自由感であった。
哲学者・西田幾多郎の書 ―「無」。
長いこと対峙してきた一文字。
この文字が新たに透明な自由感・解放感として、
私の内に流れ込み、活きて脈動し始めたように思う。
言葉にすると単純なものだ。
だが私にとり断捨離は、
この歳で与えられた極めて大きな体験であった。
これもまた一つの「光」の感覚と言うべきか。
西田幾多郎「無」
西田幾多郎記念哲学館