コラム

2023.07.27

バッハ

                            バッハ像


 ベートーヴェンと共に、私を支え続けてくれたバッハ。この作曲家から与えられたものを、いつか何らかの形で書いておきたいと思ってきた。しかし音楽について言葉にするのは、私にはこの上なく難しい。恐らく私だけではないだろう。人が音楽について語る時、殆どの場合、その人は一方的に自己陶酔を滔々と語り続けるだけであり、聞かされる側は白けて終わるのが落ちなのだ。音楽的感動を与えられること、そしてその感動を冷静かつ的確に言葉にして他人に伝えること、これらの間には測り知れない距離が存在するのだ。

 楽譜もろくに読めず、中学校の音楽の先生からは「あなた音痴なの?!」と、今では差別用語と言うべき言葉を投げつけられ、クラスの合奏ではカスタネットをカチ・カチと数回叩くだけの役割しか与えらなかった私が、バッハについて論じることなどまず不可能なのだ。だがこの歳になると、私がバッハに如何に慰められ、力を与えられたかについて記し、彼への感謝の気持ちを記したいとの思いが強くなってくることも否めない。

 今回はカンタータ187番との出会いについて、そして私が感じるこの曲の素晴らしさについて、出来るだけ冷静にデッサンを試みてみたい。自己陶酔の押し付けとならず、かといってペダンチックな音楽論ともならず、バッハへの愛情と情熱が籠ったデッサンとなり、これを読まれる方が「百聞は一聴に如かず。では自分も一度この曲を聴いてみようか」という気持ちになって頂ければ嬉しく思う。

 

 ところで、なぜカンタータ187番か?

それが自分の琴線に強く訴える曲だという理由以外に、今までこのコラムで「自然」について記してきた流れからの選択でもある。改めてこの角度から音楽について考える時、私の心にまず浮かんで来るのはバッハであり、殊に彼が1727年にライプツィヒで作ったカンタータ187番なのだ。私にはこの曲を通してバッハが、「自然が持つ光」を実に素直に表現しているように思われる。言い換えれば、この曲でバッハは彼の自然観を、その神観と共に、見事に「音楽」にしたと思われるのだ。



    

                 ライプツィヒの光景 

                 『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』

                     磯山 雅、東京書籍、1985


 

 カンタータ187番の構成を確認しておこう。この曲は前半が3曲、後半が4曲、全7曲・二部の構成だ。冒頭と最後に「コラール」(曲を主導する「合唱」)が置かれ、第2・6曲が「レシタチーヴォ」(「コラール」が提示した主要テーマを、新旧約聖書や宗教詩等で確認し敷衍する「朗読に近い独唱」)、第3・4・5曲が「アリア」(「コラール」と「レシタチーヴォ」と呼応して、旋律・メロディを前面に出して「歌い上げる独唱」)である。

   次にその内容だが、冒頭の「コラール」で提示されるのは、自然を通して人間に向けられる神の愛と恩寵である。その神学的な意味を前面に打ち出す「レシタチーヴォ」は、前半が旧約聖書・詩篇から、後半が新約聖書・マタイ伝の「山上の説教」から採られ、「アリア」三曲も「コラール」と「レシタチーヴォ」と呼応し、自然を通して人間に注がれる神の愛と恩寵を歌い上げる。これらを受けて終曲の「コラール」も、神とキリストに対する感謝と祈りを高らかに歌い、最後の一語は 'Gratias(グラチアス’(感謝します)である。構成面ばかりでなく、内容的にも、25分ほどの演奏時間も、バッハのカンタータに於いては典型的なものと言えるであろう。毎週日曜日、教会における牧師の「説教」を受けて、改めて「音楽」として会衆に提示されたのが(教会)「カンタータ」である。

 

 まずはこの曲の構成と内容を確認した。しかし私のカンタータ理解と鑑賞は、決して最初から「理詰め」な分析を以って行われなどはしない。私にとってある曲との出会いとは、ベートーヴェンの第5シンフォニー「運命」のように、まずはその曲の冒頭が持つインパクトの強さが全てであり、冒頭の数十秒間で決まってしまう。聴く側のいわゆる「第一印象」、あるいは「好み」、気取って言えば「主観的直観」が何よりも先行するのだ。これは典型的な「素人(しろうと)」の音楽へのアプローチだと言われるだろう。だがそれでいいと思っている。尤もその「第一印象」は、必ずしも「運命」の冒頭のような激しさばかりが問題ではなく、優しく甘美で軽快な始まりでも、静謐で瞑想的な始まりでも、何か私の「琴線」に強く響いて来るものがあればいいのだ。だがこの「琴線」が何であるのか、未だ正確には自覚出来ていない。

 カンタータ187番との出会いもそうだった。H.リリンクの指揮で初めて冒頭の「コラール」を耳にした時、なぜか私はオーボエと弦楽器に導かれる柔らかで明るい曲想に魅了されたのだ。そのまま全曲を聴き通し、途中でも不思議な心の安らぎを感じされられつつ、最後の「コラール」の、そのまた最後の一語`Gratias´まで来ると、再び心を揺さぶられるような感動に捉われたのである。「感動」と言っても、烈しく心を震撼させるようなものではなく、そこには深く心に沁み入るような、不思議な明るい安らぎの感覚があった。少々大袈裟な表現を用いると、ある生命の根源感のようなものが、殊に冒頭と最後の「コラール」から響いて来たのだ。

 

 心に沁み入るような、明るく安らぎに満ちた生命の根源感 ―― 私の琴線に響いたこの「第一印象」に導かれ、改めてカンタータ187番との取り組みが始まった。私にかくも生命の根源感を与える曲想・メロディは、そもそも一体何について歌っているのか? 何度も何度も繰り返し聴きつつ、ここで歌われている歌詞自体の理解を試みたのである。リリンクの指揮するカンタータ全集には、どの曲にも独語との対照で英・仏・伊語の訳がつけられている。その後小学館から発行されたバッハ全集にも、独語とセットで逐語的な日本語訳と詳細な解説が付されている。これらと取り組むことから、この曲のテーマが、神が自然を通して人間に与える愛と恩寵の豊かさを讃美し、それへの感謝と喜びを表明し、祈りを捧げるものであることが明らかとなった。「やっぱりそうだったか!」。この曲との出会いで感じた、深く心に沁み入るような、不思議な明るい安らぎの感覚、ある生命の根源感のようなものが何処から来るものなのか、ようやく納得がいったのである。少々大袈裟だが、この時私は、ヨーロッパの人々の宗教的心情の核心に僅かながらでも触れ得たように感じたのだった。

 勿論、バッハのカンタータ200曲の中には人間の罪業や悪業の深さを歌うものも多く、その点でドストエフスキイの世界とも重なると言えるだろう。だがこのカンタータは「闇」よりは「光」に満ち、上に記したように、自然を通して人間の生を根底から支える神の愛と恩寵を正面から端的に歌い上げるのだ。ここを支配するのは明るさと平安・喜びの感情であり、聴く者に生の肯定と讃美の心を素直に呼び起こす力に満ちていると言えよう。

 神が自然を通して人間に与える愛と恩寵の豊かさ――構成面でも、内容面でも、ひとたびこの曲の基本線が明らかとなると、ただ第一印象の延長線上でこの曲を聴き続けるよりも、やはり味わいの奥深さが増すことは事実である。私は落ち着いてこの曲を味わうようになり、改めてこの曲を他のカンタータと聴き較べたり、あるいはベートーヴェンのシンフォニー第6番「田園」と較べてみたり、更にはドストエフスキイや聖書世界の中に置いてみたりするようにもなった。

 

 この曲の冒頭と最後に置かれた「コラール」への感動から、繰り返しこの曲を聴きつつ、二つの「レシタチーヴォ」と「アリア」三曲を含めた歌詞全体の理解へ。同時に二部・7曲からなる構成の理解、そしてバッハの自然観・キリスト観・神観へのアプローチへ。更にはバッハとベートーヴェンやドストエフスキイ世界との比較へ。――バッハのみならず、私の音楽との出会いも、人間・世界・歴史・自然との出会いもまた、ほゞ全てこのように長い時間をかけた、様々な試行(思考)錯誤の連続である。


     

                    ルター訳ドイツ語聖書

                        バッハ全集⑤、小学館

 

 

 最後にこのコラムで扱ってきた「自然を見る眼」、あるいは「自然が持つ光」というテーマとの関連で、改めてこの曲の歌詞・メッセージについて記しておきたい。可能ならば何時の日か、バッハとドストエフスキイについて書くためのデッサンとしてである。

 

 前半の第1曲「コラール」は、人間に食物を与える神へのストレートかつ素朴な讃歌であり、旧約聖書の詩篇(104、27-28)から採られている。

 

「あなたがお与えになれば彼らは集め

   あなたが御手を開かれれば、

 彼らは良き物に満ち足りる」

                           (磯山 雅訳、バッハ全集⑤、小学館)

 

 これを受けた「レシタチーヴォ(バス)」と「アリア」(アルト)の歌詞もメロディも、ここには挙げないが、胸に染み入る美しさを持つものだ。

 後半の最初、第4曲「アリア」(バス)は、旧約詩篇を基にした第1曲と呼応して、新約のマタイ伝から採られた「山上の垂訓」の一節である(6、31-32)。コラムの第二回目で『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老と共に取り上げた、あのイエスの「天の父」への讃歌だ。ここには旧約聖書と新約聖書に対し、共に十分な眼配りをしつつカンタータを作り上げるバッハがいる。カンタータを聴く時、いつも私は、新約聖書のイエスの「言葉」が新たに「音楽」として表現されることへの驚きを感じざるを得ない。「宗教」と「芸術」とは、更にはまた「文学」とは何であるのか? それらは互いに如何なる関係にあるのか? ―― 改めてこの問いの前に立たざるを得ないのである。

 イエスの言葉を改めて挙げておこう。この部分は磯山氏も日本聖書協会の口語訳を用いている。


「だから、思い悩んで言うな。

   何を食べようか、

   何を飲もうか、

   何で身を飾ろうか、と。

   それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。

   天の父は知っておられる。

   お前たちがこれらのものを

   みな必要としていることを」 

                        

 繰り返しとなるが、カンタータ187番は、第1曲目から最後の第7曲目に至るまでの全曲が、この「天の父」の愛と恩寵を新旧約聖書の内に確認しつつ、見事なメロディに載って歌い上げるのだ。  

 第5曲の「アリア」(ソプラノ)にも第1曲と同じオーボエと弦楽器が優しく響き、続く「レシタチーヴォ」(同)も印象深い。引用は省略する。

  最後に「コラール(合唱)」の歌詞を挙げておこう。バッハはこれを、H.フォーゲルが作詞したコラール「我ら心の底から歌わん」(1563)を土台として作曲したとされる。この歌詞と演奏とに耳を傾けることで、バッハの自然に対する、人間に対する、そして神とイエス・キリストに対する感謝と祈りの心が、ここに凝縮して表現されていることがよく理解出来るように思う。

 

「神は大地を美しく整え

 糧を絶やすことはない。

   山と谷とを神は潤し、

 家畜のために、草を生えさせてくださる。

 大地から葡萄酒とパンを

 神は造り出して私たちを飽かせ、

 人間の命を養ってくださる。

 私たちは心から感謝して神に願う、

 霊の心を与えてください、

 私たちが事を正しく理解し、

 いつも神の掟によって歩み、

 御名を大いなるものとしますように、

 キリストにおいて絶えることなく、と。

 このように私たちは、感謝の歌を歌うのだ」

          (磯山 雅訳、バッハ全集⑤、小学館)

 

歌詞の後半7行。ここにはキリスト教思想のエッセンスが込められているように思われる。今後ルターやバッハにドストエフスキイを加え、ゆっくり検討をしてゆきたい。

 最後に「感謝の歌」と訳された語、これは`GRATIAS(グラチアス)´(感謝します)というラテン語であるが、正にこの一語こそバッハが見出した「自然が持つ光」に対する究極の姿勢であり言葉であり、カンタータ187番の全てだと言えるだろう。最後のこの一語を味わうためにだけでも、私はバッハのカンタータ187番を聴く意味があると思っている。



       

           バッハの自筆中に用いられた様々な音符や記号

           バッハ全集②、小学館

  



《付記》

 バッハのカンタータには幾つもの全集が存在する。最近ではYouTubeで海外の様々な動画も視聴可能である。殊にスイスのバッハ財団管弦楽団と合唱団(スコラ・セコンダ・プラティカ)を率いるR.ルッツ氏が、次々と斬新で明快なカンタータ演奏を提供し、一部の曲についてはワークショップも開き、精力的に人々への啓蒙を計っている。現代に於いて「芸術」と「宗教」とが強く手を繋ぐ可能性を示す格好の一例と言えるであろう。187番の演奏も透明な出色のものであり、変奏部分も入れて、是非一聴をお勧めしたい。

 オランダにはオランダバッハ協会があり、“All of Bach”という名の下にバッハの全曲演奏と録画が進められている。長い間指揮者を務めていたV.フェルトホーエン氏に代わって、近年日本の若手ヴァイオリニスト佐藤駿介氏が音楽監督に抜擢された。スイスのルッツ氏が指揮する斬新で明快な演奏に較べると、フェルトホーエン氏や佐藤氏が指揮するカンタータは、重厚で質朴な響きが特徴的で深い宗教性も感じられ、レンブラントやフェルメールやゴッホを生んだ国のカンタータだなという不思議な思いに捉われる。これら二つの演奏を聴き較べてみることをお勧めしたい。

 

 なおバッハは187番カンタータの第1・3・4・5曲を、72番・102番カンタータの第1曲と共に、「ト短調ミサ曲」(BMV235)にも用いている。これはカトリック的磁場の長大かつ荘厳な「ロ短調ミサ曲」(BMV232)とは違い、演奏時間30分足らずのルター派小ミサ曲4曲の一つであるが、ここを支配する独特の静謐な神秘感は、カトリックやプロテスタントの枠を超えて、バッハの根源的で普遍的な宗教感覚を表現するものと思われる(演奏はフェルトホーエン氏指揮のものが素晴らしいが、私にはベルギーのP.ヘレベッヘ氏が指揮するものも深く胸に沁みる)。

 なぜバッハは、彼の仕事の主要部分であるカンタータの、しかも会心の作と思われる明るく平明な187番の主要部分と72番の第1曲を、終末の滅びに対する悔い改めを迫る厳しく陰鬱とも言うべき102番と共に、もう一つの主要な仕事であるミサ曲に転用したのか?ここには如何なる思索のプロセスがあったのか? ――このようにある曲を他の曲に移し替えて用いることを、音楽世界では古来「パロディ」と呼ぶが、これは単なる「もじり」でも「替え歌」でもなければ、「手抜き」でも「換骨奪胎」でも、また‵recycling‘でもないだろう。私はバッハに於ける「パロディ」を(根源的)「再構築」と訳したいが、バッハに於ける「再構築」の意味については、なおゆっくりと考えねばならない。



            

                  遺骨から復元されたバッハ像

               『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』

                磯山 雅、東京書籍、1985




最新コラム

アーカイブ