コラム

2023.09.09

レンブラントの「笑う自画像」


人間の顔が行き着く先はどんなものか?

長い間このことに関心を持って来た。

死に顔・death mask については、また別に考えよう。

飽く迄も、人間が生きて行き着く先の顔である。


ドストエフスキイの顔については、

幸いにも数多くの写真や肖像画が存在し、

この作家ばかりか、広く人間と世界について、

様々な角度から考える素材を提供してくれる。

それらの10点近くについては既に考察を試みた。

殊に私が長い間向き合い続けたのは、

遺作『カラマーゾフの兄弟』の執筆時(1880年)

M.パノーフが撮影した写真である。

[ホームページ冒頭3番目、サインと共に掲げた写真である]

人間の顔というものが、その人生と思索の跡を刻印し、

しかもここまで精神の深みを映し出し得るものかと

今もその崇高さに粛然とさせられる。


ゴッホの様々な自画像も絶えず課題であった

だがゴッホについては別の機会に記すことにして、

今回はレンブラントの「笑う自画像」を取り上げたい。

延べ100にも上ると言われる彼の自画像の中で、

この「笑い」は一貫して謎であり続けて来た。

一体この顔をどう捉えたらよいのか?


まず他の二つの自画像を見てみよう。

これらも長い間向き合い続けて来たものだ。


  

      1629年 アムステルダム国立美術館


23歳頃のものとされる自画像。

画家は右斜め後方から光を射し込ませることで、

僅かに襟首と、

右の耳と頬の下方と、

そして鼻先だけを照らし出し、

顔の本体はボサボサ髪の影に隠してしまっている。

しかし、

このことで却ってこの自画像は、

若きレンブラントの内に脈打つ精神、

その瑞々しい感性と思慮深さを、

そして輝かしい未来を宿す瞳を、

この上なく鮮やかに浮かび上がらせたと言えよう。

やがて彼が駆使する「光と闇」の交錯技法、

既にこれが用いられた見事な「青春の自画像」である。



  

     1669年 マウリッツハオス美術館 ハーグ




恐らく最後のものとされる自画像。

ここにも「光と影」の技法は用いられている。

しかし「青春の自画像」が影に隠した顔の大部分が、

今や正面から光の内に置かれるに至った。

これが我々に与える印象は、

己の人生と創作活動全てを以って、

真直ぐに人間と世界と神の前に立つレンブラントであり、

およそ人間精神が行き着き得る至高の境地が、

輝かしい光の内に提示されたと言うべきであろう。

「ここに大レンブラントが居る!」(井上靖)

40年を隔てて「青春の自画像」と響き合う、

堂々たる見事な「人生の自画像」である。




  

    1668(?)年 ヴァルラス リヒャルツ美術館 ケルン



これも最晩年の自画像の一つである。

上に挙げた二つの自画像を前にする時、

この「笑う自画像」とは何なのか?

そもそもこれは「笑い顔」なのか?

「笑い顔」だとしても、

ここから私に思い浮かぶのは、

「哄笑」とか「拈華微笑」等の肯定的な笑いではない。

むしろ「嘲笑」とか冷笑」とか「苦笑」等に連なる、

否定的な意味での笑いでしかない


敢えて言えば、

この笑いが私に呼び起こすのは、

痛切な自己崩壊・解体の悲劇的感覚である。

恐らくここには、

晩年に彼が陥った悲惨な運命を正面から見つめる、

生活者・芸術家としてのレンブラントがいるのだろう。

また同時に、

己の人生が行き着いた先を、

人間と世界もまた究極行きつく先として

かくも痛切な「笑い」の形で表現せざるを得ない、

思索者・芸術家としてのレンブラントもいるのだろう。


この自画像が思い起こさせるのは、

"The worst returns to laughter."

 「どん底まで行けば、あと還るは笑いだけ」

シェイクスピアの『リア王』に於いて、

人間の愚かさ・残酷さと突き当たったエドガーの叫びだ。


だがエドガーの笑いは、

なお遠い光への展望を宿すものでもある。

レンブラントの自画像の場合、

この青年の笑いを遥かに突き抜けて

眼をえぐり取られた青年の父グロスターの絶望や、

娘たちや人生に裏切られた老リア王の狂気と響き合い、

「笑い」が持つ悲劇的本質を表現するに至ったと言えよう。


運命の行き着く先、

自己解体と崩壊の極、

人間の内からは「笑い」というものも生じる、

否、痛切悲惨な「笑い」が生じるしかないことを、

十七世紀の巨人二人は教えてくれるのだ。 



私は今、

レンブラント晩年の二つの自画像を前にして、

どちらか一方を選び取ることは出来ない。


レンブラントは、

これら二つの自画像を通して、

こう語りかけているように思われるのだ。


  人間が行き着くところはこれら両者だ。

  人生の終り、私が身を以て示した両極の相貌を受け止め、

  更にその先、自分自身の究極の自画像を探ること、

  この課題を自らの背に負うのが人間ではないか。



最新コラム

アーカイブ