コラム
心に残る三つの街(町) (2) トンブリッジ ―シャガールの光の教会―
35年前、河合塾から研究休暇を与えられ、
妻と子供二人とロンドンで暮らすことになった。
しかし幼い子供たちを新しい環境と言葉に慣れさせるため、
最初はロンドンをパスし、その南郊にあるケント州に行き、
タンブリッジ・ウェルズという町の民宿にお世話になった。
ここでの一か月、二人の大学生が我々家族に英語の特訓をし、
その合間にケント州の各地を車で案内してくれたのだが、
これは実に多くの貴重な思い出を与えてくれることになった。
春の長雨が途切れて快晴となった日の朝、
大学生のニックとトレバーが大きなバンで乗り付け、宣言した。
「今日、我々は隣町のトンブリッジに行きます!」。
‘Tumbridge・Wells’ と‘Tombridge’。
彼らの早口の発音に慣れない耳には区別がつかない。
何度も発音して貰い、スペルを示されて初めて納得がいった。
我々の滞在する町は「タンブリッジ・ウェルズ」、
その隣町が「トンブリッジ」なのだ。
(今回は「街」よりも「町」と記す方が相応しいだろう)
「素晴らしい天気です!
こんな日に英語の勉強などしていてはいけません。
トンブリッジ近辺の田園を回って来ましょう。
伝統的なオースト・ハウス(ホップの乾燥小屋)もあるし、
田園の中に小さく素敵な教会もありますよ!」
若く善良な二人の提案に対して、反対する理由などなかった。
トンブリッジ近郊、チューダリー村、 All Saints Church
二人が案内してくれた All Saints Church は、
トンブリッジ町の近郊にあるチューダリー村、
広々と広がる田園の中にポツンと立っていた。
木々に囲まれた教会堂は中世に建造されたもので、
小さく武骨で、取り立てて目を引くものはない。
しかし中に入って息を呑んだ。
誰もいない教会堂の中、四方の窓から太陽の光が射し込み、
何面もあるステンドグラスが青・紫・赤・金に煌めき、
壁や床や天井の至る所が、正に光の乱舞する世界なのだ。
圧倒的なのは正面祭壇の背後にあるステンドグラスの青だった。
上方、赤い二重の円に囲まれた十字架上のイエス・キリスト以外、
大部分を占める青が何を表わすのかは判然としなかったが、
その煌めきは、一瞬、ここが天国かと思わせた。
子供たちは歓声を上げて飛び回り、我々夫婦は沈黙した。
ニックはシャガールのステンドグラスだと言う。
こんな田舎の田園の真ん中に何故シャガールが?!
私の質問に対して、ニックもトレバーも肩をすくめ、
最近このステンドグラスが話題になったようだが、
詳細については知らないと言う。
帰りがけ、皆でカフェのスコーンを食べながら、
オースト・ハウスの可愛い円錐の屋根について、
訪れる人もいない田舎の小さな教会について、
その窓を飾るシャガールのステンドグラスについて、
そしてそこに煌めく光の素晴らしさについて語り合ったものの、
パンフレットを貰って来た者は一人もいず、
あの青い光が描くものについて具体的なことは何も分からぬまま、
春の陽光の下、皆がそれぞれに満足し、
ケント州の田園を巡るドライブは終わったのだった。
All Saints Church 正面祭壇背後のステンドグラス
All Saints Churchとシャガールのステンドグラスについて、
また正面祭壇背後、あの青い光が描くドラマについて、
私が詳しい事情を知ったのは今から10年ほど前、
日本に帰って、なんと20年以上もが経ってからのことである。
以下に、様々なインターネット情報や観光案内書や単行本等を介し、
遅まきながら私が知った事実を記しておこう。
1963年、サラという21歳の女性が水難事故に逢い命を落とす。
サラはトンブリッジの豊かな貴族ヘンリー卿の娘であった。
悲しみに沈むと共に、亡き娘の永生を願うヘンリー卿夫妻は、
折しも All Saints Churchに大規模な修復計画のあることを知り、
12ある窓の内の1つを娘の供養ために寄贈することを思い立つ。
ヘンリー卿の妻ローズマリーは芸術を深く愛する人であり、
娘サラもシャガールとそのステンドグラスをこよなく愛していた。
ヘンリー卿夫妻は、フランスの工房で制作に励むシャガールに
All Saints Church の修復計画のことを知らせ、
そこに亡き娘のための作品を制作してくれるよう依頼する。
サラとその母はアングリカン教徒だったのに対し、
ヘンリー卿とシャガールは共にユダヤ教徒であったが、
サラの死を超えた永遠の生命を願う心は一つであった。
1966年、祭壇背後の三つの小窓が一つの大窓に纏められ、
翌年、その大窓にシャガールのステンドグラスが運び込まれる。
フランスから教会を訪れ、そこに煌めく光に感動したシャガールは、
残る11の窓も自分の作品で埋め尽くすことを申し出る。
1985年、全ての窓にステンドグラスが嵌め込まれる。
シャガールが世を去ったのはその直後のことであった。
[この話について、私が主に依拠したのはInternet上の
小論 "Chagall's stained-glass windows in Kent"
(Irene Kukota、2020)と、大澤麻衣著『イギリスの
小さな教会』(書肆侃侃房、2012)である。だがそれら
が拠った原資料について、私自ら確認していないため、
思わぬ誤記があり得ることを記しておかねばならない]。
All Saints Church ステンドグラスの一つ
今、改めて振り返ると、
トンブリッジの All Saints Church の窓全面に、
シャガールの制作したステンドグラス全てが嵌め込まれたのは、
我々家族が渡英した年(1988)の三年前のことである。
上に記したように、その直後にシャガールはこの世を去り、
All Saints Church のステンドグラスは、
彼の芸術活動に於ける遺作とも呼ぶべきものになったのである。
当時イギリスや、シャガールが工房を置いていたフランスや、
地元のトンブリッジなどでは、それなりに話題になったのであろう。
しかし大学生のニックやトレバーの例から分かるように、
サラの悲劇のことも、シャガールのステンドグラスのことも、
またサラの父とシャガールのユダヤ教を通じた結びつきの経緯も、
恐らく今ほど広く世に知られることはなかったのではなかろうか。
私の帰国後、なお数年ロンドンで暮らした家族も知ることはなかった。
更にシャガール芸術に於ける宗教の位置と意味や、
世界各地にある彼のステンドグラスに於けるこの作品の位置づけも、
そう正面から問題にされることはなかったように思われる。
この教会のステンドグラスが広く世に知られ、
ケント州の観光名所になるにはそれなりの時間が必要だったのだ。
私もシャガールのステンドグラスを愛する一人である。
そして西欧文化と宗教の精髄の一つは教会堂のステンドグラスであり、
それが大海の底で煌めくかのように創り出す神秘的空間だと思っている。
だがAll Saints Churchのあるトンブリッジの隣町に一か月も滞在し、
この教会堂を訪れて、ステンドグラスが創り出す光の世界に感動しながら、
私はそこに描かれたサラの悲劇について何も知らずにいたのだ。
しかもその悲劇をシャガールが受け止め、20年近く取り組んだ末に、
遺作とも言うべき作品として遺したことも知らなかったのだ。
つまり私はこの教会堂に満ちるサラの霊に全く気付かなかったのである。
このこと以上に悔やまれることはない。
コペンハーゲンへの旅も、
次に記すトレドへの旅もそうであったが、
「旅」は一度で終わるものではないとつくづく思う。
正面祭壇背後のステンドグラス 上部 十字架のキリスト
正面祭壇背後のステンドグラス 下部 水に漂うサラ
娘の不慮の死と親の悲しみ。
亡き娘の永世を願う父と母の思い。
All Saints Churchの大修復計画。
シャガールへのステンドグラス制作の依頼。
サラを迎える十字架のキリスト像の完成。
作者シャガールの感動と新たな決意。
20年近くが経って、ステンドグラス全面の完成。
そしてシャガール自身の死。
―― 人間は、奇しくも感動的なドラマを次々と産み出してゆく。
ケント州の田舎町トンブリッジ。
その郊外に広がるチューダリー村の田園。
そこの各所に残るオースト・ハウス。
田園の只中にポツンと立つ小教会。
その窓に嵌め込まれたステンドグラス。
それを通して乱舞する光。
―― 自然もまた、惜しげもなく素晴らしい美を産み続けてゆく。
出来ることならば、
私は家族ともう一度あの All Saints Church を訪れ、
太陽の光に煌めくステンドグラスの前に立ってみたい。
またアングリカン教徒であったサラとその母に対して、
ヘンリー卿と同じユダヤ教徒であったシャガールの描いたキリストが、
サラを天国に招き入れる青い光をこの身に浴びてみたい。
そして35年前に感じたあの驚きと感動が、
サラの死を超えた永遠の生命を謳う光の讃歌であったことを、
改めてこの目と心で確かめてみたい。
ケント州 オースト・ハウス (ビートの乾燥小屋)
INFO
All Saints' Church
Tudeley, Tonbridge TN11 0NZ