コラム
心に刺さった言葉(一)
心に刺さった言葉(一) ―日本―
長い人生に於いて、自分の心を揺り動かした言葉は少なくない。それらは心に刺さって、蒙を破る「覚醒」を与え、また思索を強く迫る「謎」・「公案」となり、更には及び難い高みから自分を見守る「導きの星」ともなってくれたのだった。それらは全て、過去の懐かしい思い出であると共に、人間と世界と歴史の理解に於いて、今だに遅々たる歩みしか続けられない私を励まし続け、認識の深化を促す源泉であり続けてくれている。それらの中で、今回は日本から5つ、次回は西欧世界から5つ、全部で10の言葉を選び、それらと私との出会いを記したい。このことが私の思索の新たな出発点になると共に、これを読まれる方が何らかの参考にして頂けるならば幸いである。記述は簡潔を旨としたい。
[1].石川啄木
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
三行分かち書きの短歌。石川啄木(1886-1912)の歌集『一握の砂』(1910)から。
高校一・二年生の頃、私は夭折の詩人・石川啄木の数多くの短歌を愛唱する「文学かぶれ」の少年であった。彼の歌の多くは重なる不幸な運命を下地に、恋愛や肉親への愛、故郷や自然への思い、辛い労働や貧や病、そして死や別れなどを詠ったものを核とし、そこには青春の哀傷と死の影を濃く帯びた抒情性が脈打ち、鬱屈した私の胸を搔きむしるものばかりであった。やがて芭蕉の俳句と出会った私は、次第しだいに啄木の世界から離れて行ったのだが、「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」 ―― この歌だけは私の内深くに沁み込んで、今もなお鮮やかに生きている。
この歌の何が私の心を動かし続けるのか? 私はしばしば考える。そして決まって辿り着くのが「空に吸はれし」という表現である。この地上を遠く離れ、遥か天空に吸い込まれた啄木の「十五の心」。それに重ねて、私の心もまた遠く空の高みに吸い込まれてゆくのだ。ここに青春のセンチメンタリズムを読むことも、また少年が恵まれた深い宗教体験を読もうとすることも、それぞれに可能であろう。だが少年が図らずも迷い込んだ天空、そこで「十五の心」に与えられた体験を、敢えて出来合いの枠や言葉に嵌め込む必要があろうか。啄木自身も、「空に吸はれし 十五の心」と止め置いているではないか。彼の「十五の心」は、自分がそこで出会ったものを言葉にすることなど思いも寄らなかったのか、或いはそれを言い表す言葉を未だ知らなかったのか・・・いずれにせよ、この歌を前に、我々も瞬時「空に吸はれし 十五の心」を甦らせて貰えるならば、それで十分ではなかろうか。
ところで、「不来方のお城」の「不来方」とは、その名も響きも不思議な魅力を持つ。「盛岡城」の旧い呼び名だそうだが、旧くは「コチ・カタ」、即ち「川の跡や河畔」を表わすアイヌの地名に由来するとの説や、昔、人々を脅す鬼が退治された時、その鬼が「二度と戻って来ない」ことを誓わされて放免されたことから、「不来方」という地名が生まれたとの言い伝えもあるという。二度と戻れぬほど恐怖に捕らわれて逃げ去った鬼。二度と戻れぬほど空の奥深くまで吸い込まれた「十五の心」。 鬼にせよ、少年にせよ、「不来方」という名は、彼らが味わった「恐れ」、ないしは「畏れ」を見事に表す不思議な響きと力を持つ。この「不来方」という名と重ね、この歌を胸の震えと共に口ずさむことが出来るならば、繰り返しとなるが、それで十分だろう。―― 今の私はこう思う。
[2].親鸞
善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
親鸞(1173-1263)の言葉を弟子の唯円が纏めた『歎異抄』(1288?)から。
高校時代の私は、自分を始めとする人間の汚れを強く意識し、中原中也の詩集『山羊の歌』に出て来る「汚れちまつた悲しみ」という表現に驚かされ、酔わされ、それを常に口ずさむ「文学かぶれ」の少年であった。最初に挙げた啄木の「空に吸はれし 十五の心」への感動と執着も、同じ根を持つのであろう。
大学に入った頃、経済高度成長の道を突き進む日本では公害問題が激化し、自民党政府の腐敗も激しく、更には大学紛争が始まり、教授たちは見るも無残にその権威を失墜させてしまい、外では冷戦下、アメリカによるベトナム戦争がますます激しさを増し、ナパーム弾がベトナムの大地に雨霰のよう降り注がれていた。私にとって人間とは「善人」どころか、殆ど誰もが「汚れ」に満ちた「悪人」であり、「罪人」に他ならないと思われた。
そのような時に開いたのが唯円の編纂した『歎異抄』であった。ここには「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」・「煩悩具足のわれら」・「煩悩具足の凡夫」・「地獄は一定すみか」等々、私が抱く人間観を「これでもか! これでもか!」とばかりに確証する親鸞の激しい言葉が溢れていた。この「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」を一人残らず救い取ろうとする「彌陀の誓願」を信じ、ひたすら念仏回向するのが親鸞と浄土教であり、私はこの教えに惹かれ、強い関心を持つようになった。そして手にした『歎異抄』の中で最も強く私の胸を打ったのが、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉だったのである。
「善人なおもて往生をとぐ」――このことに異論はない。だが当時の私は、そして今もそうだが、この世界に純然たる「善人」は殆ど存在せず、たとえ誰もが口を揃えて或る人のことを「善人」だと評しても、そこには何処か無理があり、また皆がその「善人」が往生を遂げると請け合ったところで、心の片隅には何か素直に受け入れられないものがあったのだ。ところが「いはんや悪人をや」と、「悪人」こそが彌陀の誓願に摂取され往生を遂げるとされると、私は胸を抉られるような感動を覚えたのである。
全人類が、悪人さえもが救われる、救われねばならない!―― 親鸞と浄土教が説くことは、当時私が夢中で読んでいたドストエフスキイを思い出させた。この作家が描く作品も正に「悪人」・「罪人」たちが跳梁跋扈する世界であり、私にはそれら「悪人」・「罪人」たちの救済の問題こそ、この作家が我々に投げかける最大のテーマだと思われたのだ。
またドストエフスキイが根を置く新約聖書の世界に於いても、その中核をなすイエスが向き合うのは「悪人」・「罪人」・「病人」たちであり、彼らを如何に神に立ち帰らせるかが、彼の最大の課題であり使命とすることであるように思われた。このイエスが或る時、人々から忌まれる「罪人」や「徴税人」と食事をしているのを見て、ファリサイ人や律法学者たちが強い疑義を呈する。これに対して彼はこう答えたとされる。
「丈夫な者に医者はいらない。
いるのは病んでいる者だ。
私は『義人』どもを呼ぶためではなく、
『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」
マルコ福音書二17(佐藤研訳、岩波書店)
人間全てが「悪」と「罪」に染まった存在であるとし、その「悪人」・「罪人」が一人残らず救われずにはいないとする「彌陀の誓願」―― 全人類の救済を視野に置く親鸞の思想は、そのままドストエフスキイ・イエスの思想に通じると思われた。そして私には、親鸞とドストエフスキイを介し、浄土教とキリスト教が互いに強く深く響き合うように思われたのである。親鸞仏教センターの若き学僧の皆さんと共に、親鸞と浄土教について、そしてドストエフスキイとキリスト教について、様々な角度から検討し合う研究会を今も続けさせて頂いているのは(※)、半世紀前『歎異抄』で出会った親鸞の言葉を機縁とするものに他ならない。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」―― 短いが、限りない奥行きと力を持って今も私の内に生き、思索を迫る言葉である。
(※)当ホームページの「コラム」欄、第5回目(2023/7/3)に記した論考『研究会「親鸞とドストエフスキイ」』を参照。
[3].星野富弘
わたしは傷を持っている
でもその傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる
『四季抄 風の旅』(立風書房、1982、// 新編 学研パブリッシング、2009)から。「れんぎょう」の花の絵に付けられた詩(1976)。
星野富弘さんは24歳の時(1970)、体育教師として赴任した中学校でクラブ活動の指導中、首から下が動かなくなるという大怪我をしてしまう。頚椎の損傷である。死を願っても叶わず、病院のベッドで絶望の日々を送る彼を、お母さんが懸命に看病してくれる。やがてお見舞いの人たちが持って来てくれた花の美しさを見つめているうちに、そこに働く「何か大きな力」に気づかされるようになった星野さんは、お母さんに筆を口にくわえさせて貰い、字を習い、見舞いの人たちへのお礼の手紙を書き、その余白に様々な花の絵を描くようになる。星野さんの詩画世界の誕生である。周知のように、彼が生み出す素晴らしい詩画は、国の内外で多くの人々の心を打ち、今も大きな励ましを与え続けている。
私も星野さんの詩画に感動させられ、力を与えられてきた一人である。密かに自らを「富弘フリーク」と称する私は、富弘美術館を訪ね、星野さんの新しい詩画集は勿論のこと、絵ハガキやカレンダーに至るまで、目につく作品は殆ど全て買い集めるまでになったのだった。星野さんの詩画の中から、「これ一つ!」を選ぶというのは至難のことであるが、敢えて上に挙げた詩を選んだ。
20代から30代、大学から大学院で学ぶ私は専門の勉強で余裕がなく、自分の世界に閉じこもり、外の世界との関係をどう築いてゆけばよいのか、よく分からなくなっていた。ドストエフスキイが言う「地下室生活者」となっていたのだ。その前に現れたのが星野さんの詩画の世界であった。花の「美」とそこに働く「力」に触れるに至ったと言う星野さん。自らの傷を通し、人の「やさしさ」が沁みてくると言う星野さん。星野さんは、手足を動かすことさえ出来ない絶体絶命の孤独と絶望の中から、気の遠くなるような長い苦しみと努力の末に、自分と世界との間に全く新しい関係を築くに至ったのだ。
「わたしは傷を持っている でもその傷のところから あなたのやさしさがしみてくる」 ―― この「あなた」とはお母さんであり、家族の皆さんであり、彼を愛する人たちであり、またやがて彼が全てを預けるイエス・キリストと神様でもあるのだろう。自分と人間と世界、そして高き存在が、「傷」を通して、「やさしさ」によって、見事に結ばれるに至ったのだ。
この短い詩は、それまで私が作り上げていた「地下室」の壁に穴を空け、私の目と心を素直に外の世界に向かわせてくれた。星野さんを導き手として、私は再び草花や木々や夕日と向き合うことを心掛けるようになったのだ。
最後に星野さんの言葉をもう一つ挙げておきたい。
上と同じ『四季抄 風の旅』の中で、「なしのはな」と題された詩画の内、詩の部分である。
椿の花は首のように落ちるという
桜の木の下には死体が埋まっているという
山百合はうめき声が好きで
彼岸花は墓場に咲くという
花よ
美しいものたちよ
なぜいつも おまえたちの そばに 死があるのか
美しさと人の命とどうしてつながるのか
星野さんの詩画の素晴らしさの秘密が一つ、ここに明かされているように思われる。
「やさしさ」が心に沁み込むのは傷口からであることを身を以て知るに至った星野さんは、決してただの甘い詩人ではない。シベリアでの10年間の過酷な流刑体験を通し、「死の家」の只中に美と善と崇高が存在することを発見するに至ったドストエフスキイと同じく、星野さんはこの上なく深い傷を身に負った人であり、その測り知れぬ苦しみを通して、美と死とが隣り合わせにあること、美と死と命とが畢竟つながり合うことを感じ取るという鋭敏な感性を磨かれ、我々に生の底知れぬ素晴らしさと神秘を伝えるに至った人なのだ。星野さんの詩画の世界とは、芸術の世界であると共に哲学の世界であり、そして宗教の世界に他ならない。
ところで同時代を共に歩むほゞ同年齢の先輩として、私が誰よりも尊敬する人は、星野富弘さん以外にもう一人いる。アフガニスタンで医療活動に命を懸けてこられた中村哲さんである。悲しいことに中村さんは先年(2019)、現地で凶弾に倒れてしまった。この中村さんについては、別の機会に記したい。
[4].道元
仏道をならふというは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。
道元(1220-1253)の『正法眼蔵』(1231-53)、「現成公案」から。
この言葉に初めて出会ったのは30代の半ばである。自分の存在を証するのは自分ではなく「万法」、即ち自分を含めた全ての存在である。―― 愕然とさせられた。30代の私は、専らドストエフスキイと取り組み、その土台となる聖書世界の理解を図り、ベートーヴェンに熱中していた。また上に記したように、星野さんの素晴らしい詩画世界にも触れて、自分の「地下室」の限界性を強く自覚し、そこから抜け出る努力もするようになっていた。とは言え、なお私の内から旧い自分が消えてしまったわけではなかったのだ。
その頃、数年前から始めた塾の経営が一つのヤマ場を迎え、新たに予備校や大学での仕事が始まり、更には長女が生まれたこともあり、私は自分の主体はこの自分に他ならず、自分の生と自分が進める作業・仕事に自分以外の誰も、また何物も踏み込む余地はないと信じていた。つまり私は、ひたすら認識の深化と純化を求め、かつ主体的で自立的な生活を確立することに強い責任を感じ、そのことを至上命令と考えていたのだ。ところが道元によれば、「自己をならふといふは、自己をわするるなり」 ―― この言葉は、それまで築いて来た私の絶対主観性・自己閉鎖性の壁に決定的とも言うべき風穴を開けたのである。
振り返ってみれば、当時ドストエフスキイを読む自分も、福音書と取り組む自分も、ベートーヴェンに耳を傾ける自分も、そして生徒さんたちや子供と向き合う自分も、その時は我を忘れ、向こうの世界から響いて来るもの、自分に語りかけられる言葉を正面から受け止めて理解しようとし、それと一つになろうとしていたのだ。つまりそれまでも、私は「自己をわすれ」「万法に証せらるる」こと、自己と他己が消えて互いに通い合う必要と可能性を、無意識裡にも自覚していたはずなのだ。しかし私が内に築いた「地下室」の壁はそう容易には消えず、その壁に星野さんが穴を開けてくれ、それに続いて数年後、道元の言葉がその穴を決定的に広げてくれ、ようやくそこを通して爽やかな風が吹き抜け始めたのである。三十半ばになって新たに味わう「空に吸はれし 十五の心」であった。
『正法眼蔵』は長大で難解な書物である。しかし「現成公案」の巻には歯切れのよい明晰な表現が多く、読んでいても実に心地良かった。以前啄木の短歌や芭蕉の俳句を愛唱したように、私は仕事への行き帰りの電車で、その中の一節を選び、繰り返し繰り返し唱えたのだった。その後ドストエフスキイ研究会に於いても、私は「現成公案」をドストエフスキイと聖書と共に、また次に挙げる『三冊子』の芭蕉の言葉と共に、長い間必読のテキストとして取り上げ続け、多くの若者たちに取り組んで貰ったのだった。今もそれらは彼らの心に生きているに違いない。
道元は「さとり」の世界を見事に描く。我々の目と心を厚く覆う絶対主観性・自己閉鎖性の壁が破られた時、そこに何が顕われ出るのか、「現成公案」から一節を見てみよう。
人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず。
ひろくおほきなるひかりにてあれど、
尺寸の水にやどり、全月も彌天も、
くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざること、
月の水をうがたざるがごとし。
簡潔平明な奥深い表現である。名文だと思う。道元によれば、「自己をわするる」先、そこに顕われ出るのは、月と水の照応によって表現される万法、全存在の瑞々しい輝きなのだ。これ以外にも、全世界・全存在が「一顆明珠(いつかみようじゆ)」、光り輝く一粒の珠として捉えられ、また世界と時とが梅花の開きと共に起ち上ると表現されるなど、道元が只管打座の末に如何に素晴らしい「さとり」の境地を与えられたか、私は心の底から驚かされたのだった。
しかも道元の素晴らしさは、類まれなその「さとり」の境地を、決して「秘伝」として絶対主観性・自己閉鎖性の内に閉じ込めることをせずに、或る時はこの上なく簡潔平明な表現で、また或る時は難解な論理・表現を用いて妥協なく言語化に努め、我々在俗の徒に広く示そうと努めることにあると言えよう。更に道元は日々の食事や掃除などの日常作務を、座禅に劣らぬ重要不可欠の修業とし、修行僧たちにその実践を厳しく迫ったのだった。自分の研究を進めつつ、日々の生活も確かに営むことの必要と重要性、そして困難さを痛感していた私にとり、これは驚きであると共に、道元の言葉とその生の真実さが一層確信されたのだった。
だが私にとって、これで問題が片付いたわけではなかった。星野さんに続き、道元によって認識論的な絶対主観性・自己閉鎖性の世界から抜け出る決定的な契機が与えられ、その先に開かれる「一顆明珠」の世界への展望も与えられたものの、私には彼が弟子たちと送った只管打座の生活に入る余裕はなかった。またドストエフスキイやイエスや親鸞が指し示す「悪」や「罪」の問題、この世界に於ける「悪人」や「罪人」の存在の問題も消えてしまったわけではなかった。「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」「地獄は一定すみか」の問題は、むしろ以前よりも切実な問題として立ち現われて来たのだ。また星野さんが「やさしさ」と共に提示する問題、美のそばにある死の問題、「美しさと人の命とどうしてつながるのか」という問題も改めて前面に立ち現われ、謎を一層深めるように思われた。
このようなことを口にすることは、俗世で遅々たる歩みしか出来ぬ「煩悩具足の凡夫」が、叶わぬ「さとり」を遠く望みつつ、負け惜しみに吐く愚痴のようなものと言うべきかもしれない。しかし私はなお自分自身の納得を求め、「地下室」とは言わずとも、「地」を這い続けたのである。
[5].芭蕉
師の曰、乾坤の變は風雅のたね也といへり。
静なるものは不變の姿也。動るものは變也。
時としてとめざればとどまらず。
止るといふは見とめ聞とむる也。
飛花落葉の散亂るも、
その中にして見とめ聞とめざれば、
おさまることなし。
その活たるものだに消て跡なし。
又、句作りに師の詞有。
物の見へたるひかり、
いまだ心にきえざる中にいひとむべし。
芭蕉(1644-1694)の弟子・土芳が著した『三冊子』(1702-3)の内、「赤冊子」の一節である。以下に『三冊子評釈』(三省堂、1954)の著者・能勢朝次氏の語釈も小文字で付しておく。
〇乾坤の變は風雅のたね也――天地萬物の變化流轉してゆくこと、そこに俳諧風雅の素材たるべきものが無限に存在する。
〇時としてとどめざればとどまらず――變化流轉の現象の起こりつつある其時に、十分に意を致し盡して、見とめ聞きとめなければ、それは作者の心の中に明かな印象をとどめる事がない。
〇見とめ聞きとむる――凝視や静聴によって、明瞭に印象を把握すること。
〇その中にして――花が飛び散り、葉が落ち散る、その現象の只中に於て。
〇おさまる――心におさまること。
〇その活たるもの――これは二様に考へられる可能性がある。一つは、飛花落葉等の乾坤の變を「活たるもの」と見る考へ方。他は、心に把握した印象を「活たるもの」と見る考へ方である。私は、心に把握した印象と考へている。
〇句作り ―― 句の形に作り上げること。印象が一つの藝術的形象にまで發展し、それを言語を以て表現すること。
〇物の見えたるひかり ―― 物を熟視する中に、そのものの句となるべき機微が、作者の心中にひらめき出て来るもの。「光」といふ言葉はまことに良い言葉である。感興のひらめきである。
〇いまだ心に消えざる中――ひらめきが見えてゐる中に。「いまだ消えざる中に」といふ語は、これが誠に速やかに、どこかへ逃げてしまひ易いものであることを示してゐる。
〇いひとむ――句にまとめてしまふ。
『正法眼蔵』と前後して出会った『三冊子』。これもまた衝撃的な出会いであった。上に記したように、星野さんに続き、道元によって絶対主観性・自己閉鎖性からの脱却と、そこに外部世界が輝かしい「一顆明珠」として顕われ出る可能性を明確に示されたものの、なお私には、自分の生は俗世の生に縛り付けられ、道元が送った只管打座の生とは遠いもの、「一顆明珠」は遥かに手の届かぬものと思われていた。そこに土芳が示す芭蕉の言葉が飛び込んで来たのだ。そして「一顆明珠」は、この俗世の只中にあって時々刻々光り輝いていること、我々は決してそれを掴み得ないどころか、それを掴むよう促されていること ―― これは既に星野さんも道元も指し示してくれていたことなのだが、芭蕉は改めてそのことを見事に簡潔かつ明晰な表現で示してくれたのである。
「飛花落葉の散亂るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たるものだに消て跡なし」―― 眼前で惜しげもなく繰り広げられる「飛花落葉の散亂る」光景。芭蕉にとり、眼前に広がる自然とは「乾坤の變」、即ち「天地萬物の變化流轉」の場であり、それは時々刻々測り知れぬ豊かさを以って繰り広げられる無限創造の世界なのだ。その瞬間を我々人間が「見とめ聞きとめ」、そして言葉に「いひとむ」ことをしない限り、そこに躍動する「活きたるもの」は惜しげもなく消え去ってしまうのだ。
「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」―― 芭蕉は向こうの世界から殺到する「光」、眼前に展開する絶対の「美」、それらを確かに「見とめ聞とめ」、五・七・五の十七文字に「いひとむ」ことに命を賭けたのだ。その「光」も「美」も、こちら側で「見とめ聞とめ」ようとしない限り、そこにある「活きたるもの」は心に「おさまることなし」。これも永遠に消え去ってしまうと言うのである。
それまでも私は芭蕉の俳句に親しんできたのだが(※)、この時初めて彼の認識と創作と、そして彼の生の秘密を垣間見せられた思いがした。自らを「風雅の誠」を追い求める「乞食の翁(こつじきのおきな)」とし、「柱状一鉢(しゆじやういつはつ)」に命を結んだ彼の言葉は、道元の言う「一顆明珠」を改めて彼独自の言葉で表現してくれるものとして、私の心に沁み込んで来たのだった。芭蕉も道元も、この世界が今正に活きた無限創造の只中にあることを証し、しかもそれを我々は「自己を忘れ」、「見とめ聞とめ」、言葉で表現出来ること、またすべきことを告げていたのだ。二人は「宗教」と「芸術」の密接な結びつきについて、新たに私の眼を啓かせてくれたのである。
(※)私の芭蕉俳句との取り組みについては、本ホームページの「コラム」 欄・第4回目に記した。
※ ※ ※
10代後半から30代半ばまで、私の心に突き刺さった言葉を日本語圏の中から5つ挙げた。星野さんや道元や芭蕉が「煩悩具足の凡夫」たる私に教えてくれたことは、絶対主観性・自己閉鎖性の牢獄の外に展開する世界とは、限りなく「やさしさ」を湛えた世界、光り輝く「一顆明珠」の世界、時々刻々展開する無限創造の世界であり、我々人間はそこから殺到する「やさしさ」や「光」や「美」を確かに受け止め、それを自らの言葉で表現し、かつ生きるという課題と使命を負わされていることだと言えよう。この課題と使命を自らのものとして自覚し引き受けるまで、若い自分が如何に遅々たる歩みしか出来なかったか、今振り返っても、もどかしい思いが拭えない。これを読まれる皆さんが、私の歩みを「他山の石」として生かして下さることを切に願う次第である。
次回は西洋世界の中で私が出会った、そして心に突き刺さった言葉5つを挙げたいと思う。それらは今もなお私の心の内で脈打ち続けているのだが、人間と世界と歴史、そして高き世界について、今回とは違った角度から光を当てる言葉として、改めて考えてみたい。