コラム

2024.03.18

心に刺さった言葉(二)-1


  前回の「コラム」では、20代から30代、私の心に突き刺さった日本人の言葉を5つ挙げ、それらが小さな枠に囚われた自分の心を次第しだいに押し広げてくれるプロセスを回想した。少々煩わしい表現を用いると、それらの言葉が、認識論的にも存在論的にも、私を絶対主観性・自己閉鎖性の世界から引き出すプロセスを確認したとも言えよう。

 今回と次回は、主に西洋世界の中から5つの言葉を挙げてみたい。前半で3つ、後半で2つ、2回に分けて扱うが、それらも前回と同じく、主に20代から30代にかけて私の心に突き刺さり、思索と行動の大きな導き手となってくれたものである。

 日本と西洋、これら両世界の言葉が、私の心の内で互いに如何なる関連を持ったのか、またそれらが40代以降の私の思索・行動と如何に関わったのか等々、私自身未だ十分には自覚し切れず、今後の検討に委ねていることが多い。その点でこの報告はデッサン的な「備忘録」の域を出ず、これを読まれる方が、自らの思索と行動の参考にして頂き、改めてそれらの言葉と、それらを発した人々と直接向き合う契機として頂けるならば、私としては望外の喜びである。

 

 

[1].

 火

 

  B.パスカル(1623-1662)、『覚え書(メモリアル)』(1654)より。

 

 大学生の時、私の所属はフランス語学科でありロシア語学科ではなかったのだが、専らロシアのドストエフスキイを中心に、トルストイやツルゲーネフ、ゴーゴリやプーシュキン等の文学作品、そしてメレジュコフスキイやシェストフやベルジャーエフ等の評論を読み耽っていた。しかし当然のことだが、卒論はフランス語圏の文学者か思想家を選ぶ必要があった。私はベルクソンにするか、パスカルにするかで迷った末にパスカルを選んだのだが、それは彼の『パンセ』と『覚え書(メモリアル)』に記された言葉・思想が、ドストエフスキイと彼が土台を置くキリスト教と取り組む上で大いに参考になると考えたからである。

 『パンセ』は完成した作品ではなく、パスカルが「キリスト教護教論」に向けて折々に書き貯めた断片集である。それら長短1,000にも上る思索の断片を整理し、統一的な思想体系として纏め、かつそれについて論じるのは、当時の私には荷が重過ぎることであった。これに対して『覚え書』の方は、パスカルが自らの宗教体験を一枚の紙片に記し、死ぬまで胴着に縫い込んであったものである。そこに彼の体験が「走り書き」のように記されているのだが、その迫真性と深さは圧倒的であり、またその内容もキリスト教思想の精髄と思われるもので、これもまた当時、自分が正面から扱う力があるとはとても思えなかった。そんなわけで、取り敢えず『覚え書』については後日の課題として残し、私が卒論で取り組んだのは、『パンセ』の思想を出来る限り整理し、その人間観と宗教観を自分自身に納得させるという作業であった。今思い返しても、それは極めて初歩的な主観的作業と言う他ないものだったが、それでも今に至るまで、ドストエフスキイとそのキリスト教思想と取り組むにあたって、少なからぬ助けとなってくれている。

 これに対して、後の課題とした『覚え書』であるが、これは半世紀後の今に至るまで手つかずのままであり、そろそろ正面から取り組む時だと考えている。今回はここに記された言葉の中で、当時私の心に突き刺さり、その後も私の内に生き続けている一語を取り上げたい。冒頭に挙げた「火」という言葉である。ここでは自分がこの言葉に反応した背景、またこの言葉を巡って当時の自分がどのような方向に思索を進め、更にその後の思索に繋げたのか、そしてその限界性と課題等について、今後の『覚え書』との取り組みへの「助走」も兼ねて、出来るだけ簡潔にデッサンを試みようと思う。

この言葉について記すために、まずは以下に『覚え書』全体を訳出しておこう(※)。

 

(※)

訳出にあたっては、塩川徹也訳『パンセ』(岩波文庫、2021)、田辺保訳『パンセ』(教文館、2013)、永野藤夫訳『パスカル』(R.グァルディー二、創文社、1957)等を参考にさせて頂いた。 訳文は口語体にし、改行分は一字下げた。聖典類からの引用には「 」を付けた。それらについては塩川・田辺氏の訳と訳注を参照されたい。パスカルは自らの宗教体験をまず紙片に記し、後に羊皮紙にも筆写していたのだが、ここでは当時私が読んだPascal “Pensées” (édition de Brunschvicg. Garnier、1961)所載の紙片版を訳出する。羊皮紙版については、これも前二者の訳と訳注を参照されたい。

 

★   ★  ★

恩寵の年、1654年。

 

11月23日、月曜日、教皇であり殉教者である聖クレメンス、

 そして殉教者名簿中の他の諸聖人の祝日。

殉教者聖クリソゴヌス、そして他の諸聖人の祝日の前日。

夜10時半頃より0時半頃まで。

 

  火

 

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。

哲学者、および学者の神ではない。

確実、確実、感情、歓喜、平安。

イエス・キリストの神。

「私の神、またあなたたちの神」。

「あなたの神は私の神である」。

神以外の、世と一切を忘れ去ること。

神は、福音書が示す道によってのみ見出される。

人間の魂の偉大さ。

「正しい父よ、世はあなたを知りません。

  しかし私はあなたを知っています」。

歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。

私は彼から離れていた。

「彼らは、活きた水の源である我を棄て去った」。

「私の神よ、あなたは私を見棄てたのですか」。

どうか、私が神から永遠に離れませんように。

「永遠の生命とは、唯一のまことの神であるあなたと、

  あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」。

イエス・キリスト

イエス・キリスト

私は彼から離れていた。

私は彼を避け、否認し、十字架につけてしまったのだ。

どうか、私が決して彼から離れませんように。

彼は、福音書が示す道によってのみ保持される。

全くの、心地良き自己放棄。

★   ★  ★

 

 今改めて読み返しても、この『覚え書』は1654年、パスカルが31歳にして与えられた宗教体験が、神に関する認識と、イエス・キリストに関する認識との両者を柱として、様々な聖典からの引用も含み、稀に見るほどの凝縮度と明晰度を以って記されている。しかも彼が与えられた神の臨在体験とイエス・キリストの臨在体験とが、僅か30行ほどの内に整然としたドラマとして記されていることにも驚かされる。今でも自分がこれに解説を加えることには尻込みを感じてしまう。半世紀前、自分がここから「火」という一語だけを受け取り、それを今に至るまで心の内に留めていたことも、極めて主観的・恣意的な反応でしかなかったのだが、身の丈に合った自然なことであったと思う。「火」という言葉以外に、当時の自分が反応したのは「確実、確実、感情、歓喜、平安」、「歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙」、そして「全くの、心地良き自己放棄」等、専ら主観的感情表現であったことも思い出される。これも自然な反応だったと言うべきであろう。

 それ以外のキリスト教の精髄に触れる表現、例えば「神は、福音書が示す道によってのみ見出される」、「永遠の生命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」、「彼は、福音書が示す道によってのみ保持される」 ―― このような神とイエス・キリストと福音書を核とするパスカルの宗教体験の表出については、当時自分の受容力も理解力も極めて不十分なものでしかなかったことは明かである。勿論、今の自分がその力を備えるに至ったなどとは、とても言えないのだが、あれから半世紀、どこかの時点でパスカルの宗教体験について、出来得る限り正面からの検討を試みたいと思っている。またその作業を、更にドストエフスキイとの取り組みと交差する所まで持ってゆかねばとも思っている。

 

 先に記したように、私がこの言葉に反応した背景について記しておきたい。以下の話は既に何度か語り、また記しもしたので詳細は省略するが(※)、私が「人生」に目覚める切っ掛けとなったのは小学校六年生の時、祖父が焼き場で焼かれる一部始終を目にした時であった。酒と病でやつれ果てた祖父の体を焼き尽くす「火」――その後の数年間、ここから受けた衝撃は私の内で燻ぶり続けていたのだが、それが一つの確かな言葉として結晶させられたのは、生涯の師となる哲学者小出次雄先生によってであった。高校三年生の時、大学で何を学ぶべきか迷う私に、師は言われたのだ。「君がぶつかっている問題は、結局‘永遠の生命’の問題だ。(中略)。‘死を超える永遠の生命はあるのか?’という問いでもある」―― この時、祖父を焼いた火を超える新たな「火」を求めること、死のニヒリズムを超える「永遠の生命」を見出すことが、未だ漠然とした形ではあったが、初めて私の意識の内に入ったのだ。ドストエフスキイとの出会いも、パスカルとの出会いも、この延長線上にあったのだと思う。

 

(※)

・『ドストエーフスキイ広場』 NO.18、「『罪と罰』論を書き終えて―「個人的な

  体験」、そして「復活」の問題―」 (ドストエーフスキイの会、2009)

・『予備校空間のドストエフスキイ』第二部(一)Ⅰ  (河合文化教育研究所、2022)

 

 浪人時代から大学時代にかけて、私はドストエフスキイの世界にのめり込んで行くと共に、パスカルとも取り組むことで、死を超える「永遠の生命」という言葉と、「火」という言葉が改めて強く心を支配するようになり、自分が出会う人や著作や音楽や絵画の中に、その「火」を求めずにはいなくなったのだった。そこには烈しい「火」が燃えているかどうか?―― このことが対象を判断するにあたっての、ほぼ唯一絶対の基準となったのだ。傲慢不遜な恣意的・主観的基準と言う他ない。しかし今に至るまで、これが人生に対して私の持ち続ける一つの基準であり姿勢であることも否定出来ない。

 

 「火」と「永遠の生命」―― 改めてここから見て行く時、ドストエフスキイとは、その作品全てに於いて主人公たちの旧き生を焼き尽くし、新たな生に生まれ変わらせる「火」の作家に他ならなかった。またその宗教体験を正に「火」という言葉を以って記すのがパスカルであり、「炎の画家」ゴッホは言うまでもなく、グレコの絵画もベートーヴェンの音楽もまた、見る者・聴く者の心に「火」を燃え上らせる溶鉱炉そのものに思われたのだった。

 更に私は、これら西洋世界の芸術家が根を置く聖書、その核心部分には強烈な「火」が燃えていることを次第しだいに知るようになった。旧約聖書に於いて、神によるモーセへの召命はホレブ山の燃え盛る柴の中から響き出る(出エジプト記三1-12)。イザヤへの召命に先立っても、天使セラフィムが火箸を彼の唇に押し当てて、こう言ったとされる。

 

()よこの()なんぢの(くちびる)にふれたれば(すで)になんぢの(あく)はのぞかれ

 なんぢの(つみ)はきよめられたり」 

                 (イザヤ書六6-7)

 

 西田哲学の、またR.オットーの宗教哲学の根底に存在するのがこのイザヤ召命の場面であり、私は「火」の体験というものが哲学的思索をも導くことを教えられたのだった。

  新約聖書に於いて、イエスの師であり旧約預言者の激しい精神を継ぐ洗礼者ヨハネは、人々に神の懼るべき裁きの切迫を告知する。

 

(おの)ははや()()()かる。

 されば(すべ)()()(むす)ばぬ()は、()られて()()()れらるべし」 

                        (マタイ福音書三10)

 

 ルカ福音書は、この洗礼者ヨハネが自分は「水」によって洗礼を施すが、イエスは「聖霊と火」によって洗礼を施すであろうと予言したと記す(ルカ福音書三16)

 師ヨハネを受けて、イエスその人の「火」に関する言及も懼るべき烈しさを持つ。

 

()(とも)たる(なんぢ)らに()ぐ。

   身()(ころ)して(のち)(なに)()()(もの)どもを(おそ)な。

 (おそ)るべきものを(なんぢ)らに(しめ)さん。

 (ころ)したる(のち)ゲヘナ[地獄の滅びの火]()

 入るる権威(けんゐ)のある(もの)(おそ)れよ。

   われ(なんぢ)らに()ぐ、げに(これ)(おそ)れよ」  

                                                          (ルカ福音書十二4-5)

(われ)()()(とう)ぜんとて(きた)れり。

 此()()すでに()えたらんには、(われ)また(なに)をか(のぞ)まん」

                                           (ルカ福音書十二49)

 

 旧約から新約へ。そこを貫くものが「火」として表現されること、「火」というものが文学と芸術、そして哲学と宗教の根底を象徴するものとして存在し、人間と世界と歴史、更には超越世界について考える「導きの糸」となることに、私は次第しだいに気づかされていったのだった。上に挙げたイエスの言葉は、後に私が『罪と罰』論を書く際、通奏低音のように響き続けていたことを思い出す。

 その後も私は、様々な文学・芸術・哲学・宗教作品と取り組み、内に様々な「火」を燃やす書物や人と出会ってきたのだが、その過程で、自分の「火」との出会いと、「火」を介した思索の広がりについて何らかの記録を残すことが、パスカルの『覚え書』との取り組みと共に、生涯の大きな課題だと思うようになったのだった。

 だが「水」や「土」や「空気」などと同様に、そもそも「火」について言葉にすることは生易しいことではない。それに関わる思索を言語化しようとしても平板で安易な表現に堕してしまうか、抽象に流れてしまう危険が大きい。つまり我々は「火」についてただペダンチックな知識を積み重ねるだけで、その実態は「知識・概念の上滑り」を繰りかえすのみという皮相な現実を作り上げてしまう危険性が大なのだ。このことを思い知らされたのが、50代後半に体験した以下の出来事である。

 

 ライフワークの一つ、と思い定めていた『罪と罰』論(2007)の準備をしていた頃のことだ。大学院以来の友人である岡部雄三君から、彼が参加する南原実先生の神秘主義研究会で、その『罪と罰』論について話すことを勧められたのだ。研究会が終わった後の歓談の場で、突然、南原先生が問われた。「芦川さん、‘火’についてどうお考えですか?」。

 南原先生は、勿論、私の祖父のことも、私の恩師のことも、また私が何事に於いても「火」を絶対的な判断基準としていることも知っておいでではなかった。私は恐らく先生が、専門の神秘主義との関連で、何気なくドストエフスキイと「火」について質問をされたのだろうと思った。しかし、この時私は何も答えられなかった。私の内からは一言も出てこなかったのだ。神秘主義については言うまでもなく、祖父のこと、恩師のこと、ドストエフスキイやパスカルのこと、ベートーヴェンのこと、そしてモーセやイザヤや洗礼者ヨハネやイエスのこと等々、「火」に関する様々なことが次々と頭に浮かんだものの、それらは私の思索の結実として未だ確かな言葉に結晶してはいなかったのだ。自分にとって、あれほどまで重大な意味を持っていたはずの「火」が、実は私の内で燃えてはいず、いわゆる「知識・概念の上滑り」が繰り返されているだけだったのだ。答えを返せずに言い淀んでいる私を見て、南原先生は優しい微笑みを浮かべて話題を変えられたのだった。先生は、全てを見抜かれたのだと思う。

 

 この日から10年近くが経って、南原先生のお宅にお伺いした際、私が漸くお答えした「火」について、また神秘主義研究の道半ばにして倒れた岡部君と私の最期の交流について、更にはその後ベーメとドストエフスキイに関して私が得たささやかな理解について、何時の日か何らかの形で文章に残しておきたいと思っている。また恩師の小出先生との間で、その後繰り返し話題となった「火」についても記しておかねばならない。しかし果たして自分の内には、それらを記すに足る十分な言葉の用意が出来ているのか? 「火」について未だ実質的な思索をなし得ず、「概念の上滑り」を繰り返しているだけではないのか? まだ当分の間、私はこれらの問いを自らにぶつけねばならない。

 

 「火」について、死を超える「永遠の生命」について、パスカルの『覚え書』に記された「火」を出発点として、何か語れるように感じ、また何か語らねばとも思い、これを書き始めたのだが、結局は自分の体験と思索の未熟さと、「火」の余りもの大きさを前に、それを言葉にすることの困難を痛感しただけで終わってしまった。だがこの「火」という一語が、祖父の死を契機として私の心に降り立ち、ドストエフスキイやパスカルとの取り組みを始めとして、私の人生に於いて如何に様々な試行(思考)錯誤を繰り返させる原点となり駆動力ともなったかということ、またこの「火」というものが如何に奥深い謎と神秘を秘めて「言葉」にされることを待っているかということ、そのリアリティに改めて少しでも触れ得たということ ―― これらの確認が出来たことを以って、今回はよしとしたい。



 

[2].

 「肯定的な方向に解決され得ない限り、

    決して否定的な方向にも解決されません」

 

    ドストエフスキイ、『カラマーゾフの兄弟』(1880)、第二篇・第5章より、

       ゾシマ長老の言葉。

 

 浪人時代、ドストエフスキイ(1821-81)の作品を読み始めた私は、大学入学と共に夢中でその世界に没頭していった。新潮文庫と神田の古本屋街で手に入る限りの作品を買い集め、主要作品は何度か読み返した末に、「この一作!」として行き着いたのが『カラマーゾフの兄弟』であった。私は主人公のアリョーシャとその師ゾシマ長老から発される聖なる「光」に感動させられ、その光源を突き止めることを自分の生涯の仕事にしようと決めたのだった。

 『カラマーゾフの兄弟』の世界とは、ゾシマ長老とアリョーシャ師弟から発される「光」に対して、イワンやスメルジャコフが代表する「闇」も色濃く支配し、これら両者の間で熾烈な戦いが繰り広げられる世界である。これは『カラマーゾフの兄弟』に限られたことではない。ドストエフスキイの作品に触れる誰もが、その世界が「光と闇」・「聖と俗」・「善と悪」・「愛と憎」・「生と死」・「信と不信」等々、「pro(プロ) et(エト) contra(コントラ)(肯定と否定)」の両方向に極限化されて展開する矛盾・分裂の世界であることを知らされる。しかもその矛盾・分裂の世界は、決して抽象的に表現されることなく、極めて具体的な人間ドラマとして展開することに驚かされ、混乱させられ、そして魅了されずにはいない。しかもそれらのドラマの根底にはキリスト教的磁場が存在し、主人公たちは「神はあるのか?」、「死を超えた永遠の生・不死はあるのか?」、「自由とは何か?」、「イエス・キリストとは誰なのか?」等々の問題を巡って、正に命懸けの思索と行動を、そして戦いを繰り広げるのだ。

 私はドストエフスキイが示すこの「pro et contra(肯定と否定)」の対立、矛盾・分裂の世界とは正に私自身の内なる世界であり、私が生きるこの世界の現実であり、この矛盾・分裂の統一は人類の課題に他ならないと感じざるを得なかった。それゆえ、アリョーシャとその師ゾシマ長老から発される「光」の源を突き止めることは、同時にイワンやスメルジャコフが表わす「闇」の源を突き止めることと表裏一体の課題となったのである。

 

 「光と闇」・「聖と俗」・「善と悪」・「愛と憎」・「生と死」・「信と不信」、これら「pro et contra(肯定と否定)」の対立、矛盾・分裂は果たして如何に統一され得るのか? 言い換えれば、「正」と「反」の先には如何なる「合」、つまり弁証法的止揚が可能なのか?―― このように形式論理的に整理すれば、わずか一行で表現されてしまう問題を、ドストエフスキイは最終的に如何に解いているのか、当時の私には皆目見当がつかなかった。この作家が描くのは、どれも長大かつ錯綜した人間ドラマの世界であり、そこに展開する複雑な人間関係や事件を如何に整理したらよいのか、このことだけで途方に暮れさせられてしまうのだ。しかもそのドラマの底には、ドストエフスキイが「命」とするイエス・キリスト像が存在する。その理解のためには、何よりもまず至る所に提示される福音書についての理解が不可欠だろう・・・「肯定と否定」の対立、矛盾・分裂の統一の前には多くの壁が立ちはだかっていたのである。

 この問題はパスカルに於いても同じだった。彼の人間観は、その根底に「悲惨と偉大」という対立図式を置き、そこから様々な人間像を浮き彫りにしてゆくところに特色がある。だがパスカルは、その「悲惨と偉大」という矛盾・分裂を如何に統一し、その宗教観を創り上げているのか、その構造もダイナミズムも私には把握出来なかった。『パンセ』として残された思索の断片、そこにも『覚え書』で見た神とイエス・キリストと福音書の存在が至る所に記されている。ところが、それらが互いにどのような関係を持ち、矛盾・分裂に統一をもたらすのか、全く理解出来なかったのだ。

 結局、私は改めてドストエフスキイの具体的な人間ドラマの世界に目を据え直し、そこでは「否定と肯定」の分裂・矛盾が、「悲惨と偉大」を含めて、如何にして統一されてゆくのか、その構造とメカニズムを、福音書の理解と並行して、一歩一歩明らかにしてゆく以外にないと思い定めたのである。

 

 長い暗中模索が続き、この問題で初めて私が確かな「手応え」を感じたのがゾシマ長老の言葉であった。――「肯定的な方向に解決され得ない限り、決して否定的な方向にも解決されません」。このゾシマ長老の言葉は、『カラマーゾフの兄弟』に初めて触れた頃から気になっていたものだった。だが表現の平易さとは裏腹に、その意味するところは理解し難く、時には単なる「勧善懲悪」の説教とも、また時には極めて抽象的な「人生論」とさえ思えたのだった。しかし時と共に、私の心の中でこの言葉に焦点が結ばれるようになり、ここにドストエフスキイは新旧約聖書、殊に福音書のイエス・キリストの姿を導きとして、神と魂の不死を求める長老の、正に生涯を懸けた思索と行動の全重量を込めていることが実感されるようになったのである(※)。つまりこの言葉は、パスカルの「悲惨と栄光」の対立図式も包含する「肯定と否定」統一の定式、究極の哲学的・宗教的結論として、新たに私の胸に突き刺さったのである。20代から30代を経て、40代も後半になってからのことだ。

 

(※)

 ゾシマ長老が、神の存在と魂の不死の問題で「肯定と否定」の間を揺れ動くイワンの苦しみを見抜き、この言葉を彼に贈って励ます場面については、私の『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』、Ⅴ5「イワンとゾシマ長老、「否定」から「肯定」へ」で詳しく論じた(河合文化教育研究所、2016)。

 我々はゾシマ長老のこの言葉を、ただ能天気な「光」の讃歌として読むべきではなく、その背後に「肯定と否定」を巡る彼自身の計り知れぬ苦闘が存在することを知るべきである。「光」を求めて「闇」に落ち込み、「肯定」を求めて「否定」へと傾くイワンの苦しみを見抜いたゾシマ長老は、この言葉に続いて語る。「このような苦しみを苦しむことの出来る崇高な心をあなたに授けてくださったことで、創造主に感謝することです」 ―― イワンを彼が求める「神」に向けようとの、心の底からの励ましである。更に続いて、ゾシマ長老はパウロの言葉を用いてイワンを力づける。ここには引用しないが、この言葉もドストエフスキイが描いた「肯定」の極にある言葉として、またゾシマの内に如何に聖書が生きて脈打っているかを知るためにも、是非一読をお勧めしたい。

 

「闇」に対しては「光」が ――

「俗」に対しては「聖」が ――

「悪」に対しては「善」が ――

「憎」に対しては「愛」が ――

「死」に対しては「生」が ――

「不信」に対しては「信」が ――

つまりは「contra・否定」に対しては「pro・肯定」が、人間と世界とその歴史の、そして超越世界の問題に関する究極の解決として存在すること。一見、極めて単純な定式と見えるこのゾシマ長老の言葉が、実際には如何にドストエフスキイが扱う問題の究極の結論としてあり、また如何に広く我々が生きる人生・現実の矛盾・分裂を解く手掛かりとしてあり得るか ―― 私の内で焦点を結んだこの言葉は、その後の私の思索と行動を導く最大の指標となってくれたのだった。ドストエフスキイ研究会に於いても、私はこの言葉を若者たちに投げかけ続けた。

 しかしそれで課題が全て解けたわけではない。この言葉から感じるに至った「手応え」を、私は更に繰り返し思索することによって「確信」から「確証」にまで煮詰め、確かな「言葉」に定着させなければならないと思っている。そこには、今までも繰り返し記したように、神とイエス・キリストと聖書を向こうに置いた、ドストエフスキイの生涯を懸けた思索が横たわっている。これはゾシマ長老とアリョーシャ師弟の思想と行動の解明と共に、正に今私が明らかにすることを試み続けている作業であり(※)、私に残された最大の課題の一つである。

 

(※)

・(旧)ドストエフスキイ研究会便り;

  新着情報 | ドストエフスキイ研究会 / 河合文化教育研究所 (kawai-juku.ac.jp) 

・(新)ドストエフスキイ研究会便り;

  本ホームページ

 

ドストエフスキイの作品には、実に味わい深く深遠な言葉が数多く見出される。それらの中でもこの言葉は、内容の真実さと奥深さ、そして適用範囲の普遍性の点で群を抜くものであり、ドストエフスキイ文学究極の結語の一つだと思われる。私はこの言葉が、人生で出会う様々な問題とその困難・苦しみに対すべき手段・導きの糸として、ゾシマ長老からイワンに贈られた言葉であるばかりか、ドストエフスキイから我々全人類に贈られた遺言だと考えている。その表現の平易さとは裏腹に、内容の高度な抽象性が我々を戸惑わせることも避けられない。しかしこの言葉が心に留め置かれる限り、思わぬ時、思わぬ所で、この言葉は我々にその真実を顕わし、我々を力づけ励ましてくれるに違いない。

 

 

[3].

 噛め、噛め。

 蛇の頭を噛み切れ。

 噛め!

 

  F.ニーチェ 『ツァラトゥストラ』 第三部「幻影と謎」2より、

  (手塚富雄訳、中公文庫、2023)

 

  「神は死んだ」――この認識と宣言の下、ツァラツストラは人間が「駱駝」から「獅子」へ、そして「小児」へと三様の変貌を遂げ、「超人」となることを説くべく世に出る。第三部、偉大なる「山の高み」の孤独に戻るべく、まずは「海の深み」に降りる旅の途上、彼には「永劫回帰」の思想が訪れようとしている。その時、月光の下、烈しい犬の鳴き声が彼の耳に飛び込む。「犬がこれほど助けを求めて絶叫したのを、わたしはかつて聞いたことがなかった」。

 ツァラトゥストラの前に現れたのは、一人の若き牧人であった。若者は「のたうち、喘ぎ、痙攣し、顔を引きつらせている」。眠っている間に、蛇が喉に匐いこみ、噛み付いてしまったのだ。ツァラトゥストラは手でその蛇を掴み、若者の喉から引きずりだそうとする。しかし無駄だった。と、彼の中から絶叫が迸り出る。「噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!」 ―― この絶叫を耳にした若き牧人について、ツァラトゥストラはこう語る。

 

 「だが、そのとき牧人は、わたしの絶叫の通り噛んだ。

    かれはしたたかに噛んだ。

    遠くへかれは蛇の頭を吐いた――そしてすっくと立ちあがった。

    それは最早牧人ではなかった。人間ではなかった、

     ―― 一人の変容した者、光につつまれた者だった。

     そしてかれは高らかに笑った。

いままで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに」

               『ツァラツストラ』第三部「幻影と謎」2

 

 「噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!」―― この場面に行き当たった私は、息を呑んだ。この絶叫が、ニーチェから直接自分に向かって発された絶叫として響いたのだ。今読み返しても、烈しい犬の叫び声、喉に噛み付いた蛇、痙攣してのたうち回る若き牧人の苦しみ、そしてツァラトゥストラの絶叫が、自分の心を震撼させる恐るべき力を持って迫って来る。この時、私の喉にも蛇が噛み付いていたのだ。

今もしばしば思う。半世紀前、私の喉に噛み付いていた蛇とは何であったのか?

 人間と世界と歴史について透徹した認識に至れない自分、中途半端な知識に振り回されて右往左往するだけの自分 ―― この姿に他ならなかったのだ。だがこの時、ツァラツストラの絶叫から余りにも強烈な衝撃を受けた私は、自分の喉に噛み付いていた蛇のことは忘れ、いつの間にか自らを「変容した者」、「光につつまれた者」と考え、更には自らをツァラツストラと重ね、世界を向こうに回し、「噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!」と、一人訳も分からず声高に叫んでいたのだ。パスカルの項で記したように、未熟な絶対主観性の壁の内に籠ったまま、「火」を以って全てを測り、全てを裁こうとしていた私がここにもいたのである。噛み切るべき「蛇の頭」とは、この自分の姿だったのだ。

 「2」で記したように、絶対の「肯定」の上に立ち、修道院で静かに「キリストの御姿」を守り続けるゾシマ長老 ―― この存在とは対照的に、ツァラツストラは神もイエス・キリストも否定し、「山の高み」から世界を見下ろし、傲然と一切を弾劾し焼き尽くそうとする。 私は、この高飛車で傲然たる「超人」ツァラツストラの姿にただ陶然とさせられ、世界を覆うニヒリズムに対するニーチェの強い危機意識、小市民的世俗性に対する彼の嫌悪と怒りについては十分に理解していなかったのだ。

 この「3」では、私自身の未熟さを思い返しつつ、今その喉元に蛇が噛み付いているであろう「若き牧人」たちのために、ニーチェが体現する真実と魅力、そして同時にその思想が孕む危険性について、出来るだけ簡潔に記してみたい。

 

 20代から30代にかけて、私が愛読したニーチェの作品は『悲劇の誕生』(1872)・『ツァラツストラ』(1885)・『道徳の系譜学』(1887)・『アンチ・クリスト』(1888)であった。これらの中でも、私が最も強い刺激を与えられたのは『ツァラツストラ』と『アンチ・クリスト』である。

 周知の如く、ニーチェは生涯にわたりキリスト教を弾劾し続けた哲学者である。彼によれば、パウロ以来のキリスト教は、ルターやパスカルを含め、人間が持つ始原の輝かしい生命力を奪い去り、人間を不健康な「背面世界」の崇拝者に追いやり、強者に対する怨恨(ルサンチマン)が支配する社会、小市民的「畜群」が支配するニヒリズム世界を現出させてしまったのだった。作品の冒頭近く、ツァラトゥストラに「神は死んだ」と宣言させるニーチェは、更に進んで、今見たように、蛇に喉を噛み付かれてのたうち回る若き牧人に向かい、「噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!」と叫ばせる。ニーチェにとり、噛み切られるべき「蛇の頭」とは、まずは神でありイエス・キリストであり、それに続く偉大なキリスト者たち、そして西洋世界が陥ったニヒリズムだったのだ。キリスト教が生み出したニヒリズムに対するニーチェの批判と弾劾は、洗礼者ヨハネの如き容赦のない激烈さを持ってなされ、それに触れる者の魂を震駭させずにいない。西洋社会とキリスト教的磁場から遠い我々をも驚かせ、粛然とさせずにはいないものである。

 

 ところが最大限に注意すべきことだが、『アンチ・クリスト』のニーチェは、福音書のイエスその人については、「唯一のキリスト者」として最高度の評価を惜しまないニーチェである。それと言うのも、ニーチェにとりイエスとは、キリスト教世界が「信仰」とか「真理」という虚構を以って作り上げた陰鬱剣呑な「弁証法」などとは無縁の存在であり、その端的で輝かしい生命発露の姿によって、彼が愛し崇拝するディオゲネス的生命の爆発体を表現する存在に他ならなかったからである。

 

 「イエスには、弁証法が欠けている。

 「信仰」、「真理」が、いろいろな根拠をならべれば証明できると     

  いう観念は、彼にはない。 

     (イエスの証明は内なる「光」であり、

       内的な快感よび自己肯定であり、

       全ては「力の証明」につきると言ってよい。――)」

                             『アンチ・クリスト』(西尾幹二訳、潮文庫、1971)

 

 如何なる優れたイエス理解にも劣らぬ、見事に端的かつ的確なイエス理解だと言えよう。『アンチ・クリスト』は、痛烈この上ないキリスト教弾劾の書であると共に、熱烈この上ないイエス・キリスト讃美の書でもあるのだ。

 

 「神は死んだ」と宣言し、イエス・キリストも否定し、キリスト教の終焉を告げるニーチェ。イエス・キリストをその「光」と「力」のゆえに熱烈に讃美するニーチェ。ニヒリズム・デカダンの病者としてパウロ・ルター・パスカルを弾劾・排斥するニーチェ。このパウロ・ルター・パスカルが捉えたイエス像の最も正統的な後継者とも言うべきドストエフスキイを唯一の師と仰ぐニーチェ。 ―― キリスト教に関してニーチェが発する言葉は、計り知れぬ強烈さで我々を震撼させると共に、イエス・キリスト像を巡る矛盾・両極性ゆえに、我々を大きく混乱させる危険性も持つ。先に記したように、興奮と混乱の中で、私はニーチェが表現する「肯定と否定」の矛盾・分裂については理解せず、いつの間にか自らを「超人」ツァラツストラと重ね、「山の高み」(?)から、「噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!」と、訳も分からず声高に叫んでいたのである。

 

 その後、私がこの興奮と混乱から距離を置き、ある程度冷静にニーチェと向き合うことが出来るようになったのは40代以降のことであった。ドストエフスキイと取り組むために聖書、殊に福音書と取り組む必要があった私は、そこに記されたイエスの姿と向き合う内に、そしてドストエフスキイが示すイエス像と取り組む内に、次第しだいにニーチェの福音書理解に疑問を覚えるようになったのである。

 彼が言う「光」と「力」に溢れるイエスの姿はその通りだと思われた。しかし、だとすればニーチェは、このイエスの「光」と「力」を凌ぐ「超人」ツァラツストラを、何故わざわざ作り出す必要があったのか? 私には、福音書が描き出す生命に満ちたイエス像を前にすると、彼が描くツァラツストラの言動はただ高飛車で居丈高で、(こしら)え物の「超人」に過ぎないように思われた。

 またニーチェは、イエスが十字架上で殺されるまで、ひたすら説き続けた「神」と「神の国」を否定する理由が何処にあったのか? 私には、ニーチェが激しく弾劾するパウロもルターもパスカルも、更にはルターを師とするバッハも、それぞれが十字架にまで至るイエスの姿を凝視し、彼が命を賭して説いた「神」と「神の国」をそれぞれ正面から受け止め、それぞれの言葉で見事に表現していると思われた。

 ニーチェが自らの唯一の師とするドストエフスキイもそうである。彼もまた計り知れぬ懐疑の底からイエス像を紡ぎ続け、その遺作『カラマーゾフの兄弟』に於いては、先に見たように、修道院で「キリストの御姿」を守るゾシマ長老に、「否定」を超える究極の「肯定」を宣言させているのだ。私には、このゾシマ長老の弟子アリョーシャの回心体験が記される「ガリラヤのカナ」に登場するイエスの内に、また師ゾシマの亡き後に彼が記す『ゾシマ伝』の内にも、ニーチェが弾劾する不健康な「背面世界」とか、陰鬱な怨恨(ルサンチマン)の感情とか、小市民的「畜群」が支配するニヒリズム世界の痕跡などは、一切見出せなかったのである。

 

 私は、西洋社会が陥ったニヒリズム、人間の小市民的「畜群」化に対する嫌悪と怒りがニーチェの内には燃え(たぎ)っており、この怒りの火が彼をして西洋社会を支えるキリスト教への強烈な批判と弾劾に走らせたのだと思う。ニーチェにとり我慢がならなかったのは、イエスが生きて証した神の「光」と「力」を浴びた生命が、小市民化の進む西洋社会に於いて棄て去られてしまったことであり、この社会と人間に対する嫌悪と怒りがいつの間にか、イエスとパウロ・ルター・バッハ・パスカルの内に燃える「光」も「力」も見失わせ、遂にはその否定へと追いやってしまったのであろう。ツァラトゥストラに「噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!」と叫ばせたニーチェにとり、「蛇の頭」とはまずは神であり、そしてイエス・キリストであった。しかし敢えて彼の言葉を用いて表現するならば、「蛇の頭を噛み切れ」と絶叫するツァラトゥストラ、彼が(こしら)えあげた「超人」の模造品ツァラツストラこそが、正にその噛み切られるべき「蛇の頭」ではなかったか?

 

 ニーチェは今も私の大きな課題である。この巨人について全てを言い尽くすことは不可能であり、本論のニーチェ観にも誤解は少なくないだろう。ドストエフスキイと聖書について、そしてパウロやルターやバッハやパスカルについても同じであり、なお考えねばならないことは多く残されている。その先に、改めてニーチェと向き合う必要も出て来るに違いない。

 かくして私の胸に突き刺さった言葉はどれも皆、あの若き牧人の喉に噛み付いた蛇のように、今もそのまま私の内に留まり、私が生きている限り、私を刺激し、混乱させ、思索を迫り続けるのであろう。

 

 

 

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