コラム
永遠からの呼び声 (一)龍安寺石庭
はじめに
龍安寺石庭が如何に、また何故、永遠からの呼び声を私に伝えて来るのか。そもそも「永遠」とは何か。―― これらのことを合理的に論証することは私には出来ない。出来ることはと言えば、この石庭との出会いの過程で、私が何を感じさせられ、何を考えさせられたかということ、裏返せば自分から何が剥ぎ取られたかということを語り、私に「永遠」という言葉が臨んだその過程を主観的に確認するしかない。ここでは徒にペダンチックな議論に踏み込むよりも、出来る限り具体的な体験を基に、出来る限り平易な言葉で、何段階にもわたってなされた石庭との取り組み、殊に私が繰り返した試行(思考)錯誤の過程について記しておきたい。
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永遠からの呼び声
(一)龍安寺石庭
石庭の石は幾つあるのか?
石庭に面した龍安寺方丈南面の回廊。周知のように、ここには常に多数の訪問客や観光客が満ち溢れていて、静寂が支配することはまずない。耳に入って来るのは、観光ガイドや学生を引率する先生たちの説明の声、それを受けて交わされる様々な会話である。私も庭に向き合うと、暫くはこれら周囲の声や物音に気を取られてしまい、心を落ち着けて石に集中することが出来ない。
まずは「カシャッ、カシャッ」というカメラやスマホのシャッター音。次にこの庭園の石は幾つあるかというガイドや先生たちの質問。それを受けて、観光客や生徒たちのカウントの開始。暫くして数は15だとなるや、今度はそれらの石を一カ所から見渡せる場所は何処かとの質問。それを受けての場所探し。更には、これらの石の配置が「虎の子渡し」と呼ばれるとの説明や、石が採って来られた土地のこと、そして龍安寺が作られた時代と創建者についての説明・・・このような儀式が三十分か一時間毎に繰り返され、龍安寺の一日が過ぎてゆく。
このことを私は「高み」から語っているのではない。龍安寺石庭を前にした人々の様々な反応は、実は我々が生まれて以来、自分の前に初めて現れた対象を受け止め、心に取り入れるにあたって、誰もが繰り返すほゞお決まりの歩みであり、この遅々たる歩みが我々人間の「認識の定型」と言うべきものであろう。釈迦は生まれた直後、わずか「七歩」歩いただけで「天上天下唯我独尊」と語ったとされる。釈迦の教えを受け継ぐ禅宗寺院龍安寺の石庭もまた、我々凡俗の徒に解き難い謎を投げかけているように思われる。
思い出すのは二十代、ドストエフスキイやベートーヴェンやダ・ヴィンチ等々、次々と人類の偉大な先哲たちの作品と出会った頃のことだ。巨大な岩壁のように聳え立つ彼らの作品を前にして、私は自分が持ち合わせる感受能力や思索力や表現力を以ってしては、到底これらの作品と太刀打ちなど出来ないことを痛感せざるを得なかった。自分の内にあったのは、両親や祖父母や伯父伯母たち、近所のお爺さんやお婆さんたち、そして学校の先生たちから教えられた、更には遊び仲間の悪童たちから身に着けさせられたボキャヴラリィでしかなかった。残念ながらこれらを武器・装具としては、立ち塞がる巨大な岸壁に攀じ登ることなどとても出来るとは思えなかったのである。当時私の頭から離れなかったのは、中原中也の詩にある「汚れつちまつた悲しみ」という表現であった(「山羊の歌」所載)。世界の至る所に聳え立つ岸壁群、偉大な先哲たちと取り組むべき武器・装具の代わりに、方言交じりの貧困な語彙しか身に着けていない自分の心を、中也の詩はこの上なく的確に言い表してくれるように思われたのだ。
新たな取り組み(1)
― 旧き自分の剥ぎ取り ―
ドストエフスキイを始めとする偉大な先哲たちとの取り組みに於いて、自分が余りもの未熟さと中途半端さの内にいること、つまり認識の閉鎖性と絶対主観性の壁に閉じ込められたままでいることに気づいて以来、私が努めたのは、絵画作品や音楽作品と向き合う場合と同じく、まずは己を「無」にして対象と向き合うこと、テキストに集中することだった。龍安寺石庭との出会いに於いても、事情は同じであった。
この寺を初めて訪れたのは中学時代、関西への修学旅行の時だ。だが石庭との自覚的な取り組みが始まったのは遅く、三十代の末である。自分の属する研究所の合同研究会が毎年夏に京都で開かれたため、個人的な旅行以外にも、龍安寺を訪れる機会が増え、ここを訪れるごとに、私はその石庭に惹かれていった。極めて狭い空間に置かれた僅か15個の石。しかし私には、それらの石が捉え難い謎と魅力を秘めた芸術作品と思われたのだ。新たな巨大な岸壁との「遭遇」である。
私は当時、多くのドストエフスキイ論を読んでも、それらが自分の向き合うドストエフスキイ世界を十分に捉え切っているとは思えなかった。これと同じく、様々な龍安寺石庭論を読んでも、心に強く訴えて来るものはなかった。先に記したように、自分が巨大な「岸壁」に対する感受能力も思索力も表現力も備えていないことを痛感していた私は、世の高名な学者や評論家や思想家の仕事に対しても、自ずと強い疑問を抱かずにはいられなかったのである。私は出来る限り既成の権威や知識を自分の内から剥ぎ取り、ドストエフスキイと聖書だけをテキストとして読み続けることに心を決め、これを「基礎作業」と呼んだのだった。自分の意識に強く表われ始めた龍安寺石庭も新たなテキストとみなし、出来るだけ自分の持ち合いの知識を消し去り、他人の説明にも耳を貸さず、石たちと「見つめ合う」ことだけを心掛けた。そこから自然と心に浮かんでくるものを、それが言葉であれイメージであれ、ひたすら待とうとしたのである。思索の姿勢としてはこれでよかったと思うが、未熟で傲慢な若者だったのだ。
新たな取り組み(2)
― 石の新たな捉え直し ―
長い間、京都を訪れるごとに「見つめ合い」が続いた。しかし石庭の方からは何もやって来なかった。出来る限り己を「無」にしてテキストと取り組もうとはしたものの、これは実はまだ極めて中途半端で抽象的、かつ自己陶酔的な「基礎作業」でしかなかったのだ。そもそも石庭を構成する15個の石は、それぞれがどのような形や色を持つのか、それらは幾つずつ、またどのように組み合わされて集団を作っているのか ―― 私は、これら具体的で基本的な事実の把握を十分に試みていなかったのだ。繰り返しこの石庭を訪れながら、そして「見つめ合い」を続けながら、私の頭の中には石庭の具体的な在り方自体が殆ど何も入っていなかったのである。「基礎作業」の表面性、その失敗に気づいたのは四十代の末になってからのことだ。私は改めて自分の認識力の貧困を嘆かざるを得なかった。
私が新たに試みた「基礎作業」は、5組ある石を東から5・2・3・2・3の集団として確かに頭に入れ直すこと、そして各集団内の個々の石の特徴を捉え直すことであった。数年間は石庭を訪れるごとに相当数の写真を撮り、それらを東京に帰っては眺め続けたのだった。
掲載した写真にも或る程度は映し撮れているかと思うが、驚かされたのは、一つ一つの石が持つ際立った個性、その存在感の確かさと美しさ、そして厳しさだった。また各集団が持つ個性も際立ったものであり、その存在感の確かさと美しさと厳しさも感動的であった。しかもそれら個々の石も集団も、次の訪問の際には別の印象を与えるのだ。天気の日と雨や曇りの日とでは相貌が一変し、角度を変えて撮影すると、色も形も大きく違って見える。その無限とも思われる多様性と豊かさと美しさ、そして厳しさに私は心から驚かされ、石庭が測り知れぬ奥行きを持つ正に「芸術作品」であるとの思いがますます強くなっていったのだった。
これら個々の石と集団との新たな取り組みは10年ほど続いたと思う。それでもなお私には15個の石それぞれの個性も、集団5つが持つ個性も十分に捉え切ったとは思えなかったのだが、次第しだいに注意を引かれるようになったのは、5組の集団相互の配置の問題であった。これらは一体如何なる秩序・構想の下に並べられているのか? 全体として何を表わしているのか?―― この問いこそ、龍安寺石庭に対して古来最も多く投げかけられてきた問いであり、しかもそれに対する決定的な答えが見出されないままにいる問いであろう。私もこの問いが頭から離れなくなり、様々にその答えを見出すべく努めたものの、これという答えは見つからず、途方に暮れるのみであった。
新たな取り組み(3)
― ベートーヴェンとドストエフスキイと ―
そこで新たに試みたのは、自分の内深くに沁み込んでいるベートーヴェンとドストエフスキイの力を借りることだった。まずベートーヴェンから彼の交響曲を借り、その中から5つ、第3・第5・第6・第7・第9交響曲を選び出し、これらを5組の石の集団と対置させ、それぞれの特徴について考えてみようとしたのだ。それまでも眠れぬ夜や仕事への行き帰りの電車等で、ベートーヴェンとバッハを思い起こし、彼らの作品世界について様々に比較を試みることが私の楽しみだったのだ。勿論、私はこれが素人の手慰みでしかないことは承知していたのだが、長い間馴染んだこの作業の延長線上で、今度は龍安寺石庭とベートーヴェンの両者について様々な対置の組み合わせを試み、それぞれの特徴について考えてみようとしたのである。
この作業に続いて試みたのは、私がライフワークとする『カラマーゾフの兄弟』から、カラマーゾフ家の5人を石庭に引き出して来ることだった。つまり父親フョードル、長男ドミートリィ、次男イワン、その異母兄弟スメルジャコフ、そして末弟のアリョーシャが、どの石の集団にどのような特徴を以って対応するかを考えようとしたのだ。更にこの作品の主要人物を15人選び出し、石庭の15個の石と対応させてみることや、ドストエフスキイの5大作品、『罪と罰』・『白痴』・『悪霊』・『未成年』・『カラマーゾフの兄弟』が、5つの集団のどれと対置するかを考えること等々、様々な工夫を試みたのだった。
龍安寺石庭とベートーヴェンとドストエフスキイ ―― ジャンルは異なるが、自分の心に親しい世界から5組の集団を選び出し、それぞれを互いに突き合わせ、それらが共通して指し示すものとは何か、逆に大きな違いとは何かについて考えること 、これは極めて恣意的な作業であり、アカデミズムの世界では「邪道」、或いは「素人芸」の一言で斥けられるものであろう。そしてここから容易に結論が出るものでないことも明らかである。だがこの作業は石庭についてばかりか、ベートーヴェンについて、またドストエフスキイについての理解を深める上で格好の思考訓練となってくれ、私に大きな楽しみを与えてくれたばかりか、今もなおそうであり続けている。このいわゆる「比論的思考」については、また別の機会に改めて論じてみたい。
最後にこの作業から私が考えさせられたことを、飽く迄も途中経過の報告でしかないが、幾つか記しておきたい。
「否定」を通した「肯定」
―「無」、「自由」、そして「永遠」―
ベートーヴェンとドストエフスキイと龍安寺石庭。これらの世界を往還する中で、私の心を最も大きく占めていたのは、ベートーヴェンもドストエフスキイも共に、「否定」を通した「肯定」というテーマを、それぞれの思索と創作に於ける核心としていることであった。分かり易い例を挙げれば、ベートーヴェンもドストエフスキイも共に、「皇帝」ナポレオンに対して激しい否定の精神をぶつけた芸術家である。周知の如く、第3交響曲と『罪と罰』の内には、ナポレオンの戴冠とその暴政に対する強い否定の精神と、それを超えて見出されるべき自由への希求が激しく波打っている。更にベートーヴェン生涯の集大成、第9交響曲の最終楽章たる「合唱」は、"Nicht diese TÖne(これらの響きにあらず)"という、旧き音と生の全否定を以って開始される壮大な「歓喜の歌」である。彼の音楽世界とは、何よりもまず旧き音と生の一切を「無」とし、そこから新たな自由、生の歓喜と創造を目指す戦いの世界だと言えるであろう。ドストエフスキイがその作品で展開するのも「否定」を通した「肯定」のドラマであり、主人公たちの旧き生の徹底的破壊と再生、死からの復活を求める熾烈な戦いである。
このテーマを龍安寺石庭の前に置いた時、そこに私は何の違和感を感じることもなかった。今まで繰り返し強調して来たように、この庭の15個の石たちと向き合う時、私はそれまで蓄えて来た中途半端な感受能力も思索力も表現力も全て否定し放棄することを迫られた。つまり旧き思考の枠組み一切を一度「無」に帰し、これらの石の前に立たない限り、彼らはその最も奥深くに宿すものを明らかにしてくれるとは思われなかったのである。「本来無一物」が禅の根底の精神とされる。禅宗寺院龍安寺石庭の石たちもまた、それと向き合う人間に対して、己を「無」にすることを迫るのは当然と言えよう。ベートーヴェンとドストエフスキイの世界を見据えつつ石庭と取り組み直すこと、これは「肯定」と「否定」の精神に沿って、また禅的「本来無一物」の精神に即して、改めて石庭と向き合い直すことに他ならず、決して単なる恣意的で気まぐれな試みではない ―― 私はこのように思うに至ったのだった。
改めて強調しておくべきは、石庭の素晴らしさに目覚めさせられることと逆比例するかのように、私の内で「自分」という意識が薄くなって行ったことである。つまり対象の感受と認識にあたっては、己を「無」にすること、己を失うことと逆比例して、対象がこちらの内に確実に臨んで来るのだ。 「はじめに」に於いて、私は「自分から何が剥ぎ取られたか」を語りたいと記したが、それはこの辺の事情を指したものである。
「無」、「自由」、そして「永遠」
ベートーヴェンとドストエフスキイの「否定」を通した「肯定」の精神、禅的「本来無一物」の精神、龍安寺石庭が宿す「無」、そして己を「無」にすること ―― これらについて考える私の心に、やがて浮かび上がって来たのは「永遠」という言葉であった。石庭が「永遠からの呼び声」を響かせていると思うに至ったのだ。「永遠」に加え、更にここからは「自由」という言葉も響いて来るように思われた。「無」、「永遠」、「自由」―― 私は龍安寺石庭が東洋・日本の禅宗寺院の庭であることを超えて、西欧文化と宗教の精髄とも通じる広がりと奥行の中にあり、人間精神の究極の価値を宿し表現する場として現われ出るのを感じたのである。
ここで祖父のことについて少し触れておきたい。
私が人生に向き合うようになったのは、祖父の死を契機としてであり、その後、死という懼るべき虚無を超えた「永遠の生命」を見出すことが私の最大の課題となったのだった。そのためであろう。竜安寺石庭から「永遠」という言葉が響いて来るのを感じた時、そこには死との長い対決があったこと、これは死を超えた「永遠の生命」の現前であることが自然と頭に浮かんだのだった。更に今では私は、祖父がこの自分に、15個の石たちを通して、人間全てが死を超えた「永遠の生命」の内にあることを伝えて来たのだと思っている。更に言えば、祖父がその「死」を通して、この私に「永遠」と「無」と「自由」について深く思索することを迫っているのだとも感じている。
15個の石たちについても改めて記しておきたい。
これらの石一つ一つと5組の集団一つ一つが作る姿も配置も、既に記したように、それぞれが極めて個性的で厳しい美しさを持ち、しかも豊かな躍動感に溢れたものである。これらの石との「見つめ合い」から明らかになるのは、他ならぬ石たち自身が余計なものを削ぎ落とし、禅の先師たちに劣らぬ厳しい相貌を持ち、個として屹立していると感じさせることである。ここには「無」の精神が厳として表われ出ていると感じざるを得ない。だが「無」の精神の表出と言っても、彼らが示すのは、しばしば我々が目にする気難しい禅僧的相貌ではなく、真の芸術作品にして初めて可能な、多様で豊かな創造的躍動感が静けさの内に脈打つ姿である。そこには正に「自由」が踊っているとさえ言えるであろう。
「永遠からの呼び声」、「無からの呼び声」、「自由からの呼び声」・・・繰り返すが、これらの表現のどれ一つとして、龍安寺石庭の空間に置いて何の違和感も感じさせない。龍安寺石庭はそれだけ豊かで見事な象徴性を帯びた芸術作品であり、そこには「永遠」とか「無」とか「自由」という究極の言葉を受け止める力と美と気品、そして創造的生命が朗々と脈打っているのだ。
冒頭に記したように、龍安寺石庭から呼びかけて来る「永遠」や「無」や「自由」について、私には合理的な 論証や説明をする力はない。出来ることはと言えば、この石庭との取り組みの経緯、その試行(思考)錯誤の歩みを具体的に記すことでしかない。そしてこの課題は或る程度果たしたように思う。あとは、この石庭から更に如何なる言葉が響いて来るか、注意深く耳を澄まし続けることである。
(了)
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次回について
龍安寺石庭に続いて、次回から3回、私が「永遠」という言葉を強く意識させられることになった芸術家とその作品を取り上げてみたい。中国・唐の顔真卿の書と、同じく徽宗皇帝の絵画、そしてオランダのフェルメールの絵画である。取り上げるテーマは「永遠」という極めて抽象的で扱い難い概念であるが、肩肘の張らないエッセイを目指すというこの「コラム」の原点に立ち、今回と同じく、出来るだけ具体的なエピソードを基にして、平明かつ簡潔な記述を心掛けたい。