コラム

2024.07.23

永遠からの呼び声(二)顔真卿


「カナ釘流」の覚悟

 子供の頃、毎日遊びに夢中の私は字を書くことなどに関心はなく、いい加減に書きなぐる字は殆ど誰にも解読不可能だった。字を上手に書く人だった祖父と母はこのことを嘆き、私を町の書道教室に通わせることにしたのだった。最初は私も好奇心で通っていたのだが、これは遊びでないことが分かると、間もなく教室に通うのを止めてしまった。悪餓鬼たちと外を駆け回ることが第一だったのである。祖父も母も諦めざるを得なかった。私の内に残ったのは、書道教室の先生が繰り返された「字は姿勢を正して丁寧に書きなさい」という言葉だけだった。

 その後、私の生涯を決めた恩師の小出次雄先生も、恩師から教えられて生涯をその研究に費やすことになったドストエフスキイも、共に稀に見る能書家であることを知り、私は新たに字というものに強い関心を寄せるようになった。ところが間もなく分かったことは、この分野の能力は天与のものであり、残念ながら、私にその力は与えられていないという厳然たる事実であった。私は書道の先生の教えを思い出し、自分はせめて「カナ釘流」だけでも守り、「字は丁寧に書こう」と思ったのだった。


人間と世界に対する切り口

 恩師の許で学んでいた頃のことである。仲間の一人が、彼の書く字のことで恩師から烈しく叱責されたことがあった。恩師は自分に宛てられた手紙の封筒を取り出し、言われたのだ。

「僕は君の字が下手なことについては何も言わない。

 だが君の字のだらしなさについては言わせて貰う。

 この封筒に君が書いた宛名、僕の名前は一体何だ?

 君は、こんなだらしない精神で僕に対しているのか?

 君は僕だけでなく、人間と世界にも、

 こんなだらしない姿勢、切り口で対しているのか?

 馬鹿者!」

傍らに座していた私はこの時、恩師の厳しい𠮟責が彼ばかりか、他ならぬこの自分にも向けられたものだと感じざるを得なかった。何よりも私の心を強く打ったのは、字というもの、それを刻む筆なりペンというものが生への姿勢、人間と世界に切り込むべき「刃」として自覚されねばらないということであった。「字は姿勢を正して丁寧に書きなさい」という教えの向こうに、また「書は人を表わす」という格言も超えて、字を書くことに関して、或いは書というものに関して、自覚すべき更に厳しい生への姿勢が存在することを知らされたのだ。死や病や貧困や無知、そして戦争と同じく、私が人生に対して身構えることになった出来事の一つである。


「裵(はい)将軍詩」との出会い

 四十代後半、私は初めて顔真卿の書「裵(はい)将軍詩」と出会った(次に一部を掲載)。そしてこの出会いは衝撃的であった。東晋の王義之(303-361)と共に、唐の顔真卿(709-785)が中国を代表する書家であること、このことは私も大学時代から知っていた。しかしその大学的教養は、私に書店に並ぶ王義之の「蘭亭の書」や顔真卿の「多宝塔碑」を手に取らせ、二人の卓越した手腕を或る程度印象付けはしたものの、せいぜい「王義之の繊細さは書のモーツアルト、顔真卿の雄渾さはベートーヴェンかな」程度の感想を持たせたに過ぎなかった。このような表面的教養は、モーツアルトやベートーヴェンについての単なる印象批評的な比較から進んで、更にこれら書家との主体的実存的出会いや、まして彼らとの正面からの取り組みにまで私を導くことはなかったのだ。

 繰り返すが、顔真卿との出会いは衝撃的であった。それは二十代、旧き生の一切を破壊するドストエフスキイの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』との出会いや、ベートーヴェンの第五交響曲やコリオラン序曲との出会い、更には指揮者フルトヴェングラーとの出会いの衝撃と同じ類のものであった。己の生に対する姿勢を表現するものとしての文字、恩師が言われた「人間と世界に対して切り込む」べき「刃」の切っ先としての文字・書というものを、顔真卿の書「裵将軍詩」は烈しく現実化するものとして、四十代を半ば過ぎた私の前に、突如、立ち現われたのである。


「裵将軍詩」から

   以下に「裵将軍詩」を構成する93字から、その冒頭と中盤と末尾の部分、計17文字を掲載しておこう。これら3組17文字で、顔真卿の「破体」の在り方は十分に伝わると思われる。掲載する文字とその分け方は、『忠義堂帳』(劉元剛編、1212)に拠る。                                      


     



  



「快刀乱麻を断つ」―― 「破体書」が表わすもの 

 この書との出会いの当初、私の関心は詩の内容には向かわなかった。何よりもまず顔真卿の豪壮かつ奔放な筆勢そのものが私の目を捕らえ、敢えて言えば、私の背骨を縦に断ち割り、心を撃ちのめすような衝撃を与えたのだ。長い間ドストエフスキイに於ける「否定と肯定」の問題と取り組んでいた私にとり、この顔真卿の筆勢は「肯定か否定か」の混沌・混迷を一気に断ち切るものと思われた。「快刀乱麻を断つ」。ドストエフスキイ世界の闇・乱麻を、顔真卿の「快刀」が一刀両断に切り拓き、その向こうにある光の世界を、私に「さあ、どうだ!」と指し示しているように思われたのである。

 ところでこの詩の内容だが、それは異民族匈奴の征伐に向かう裵将軍を送り、かつその武勲を褒め称えるものである。それを描く顔真卿の筆遣いは、上に挙げたように、楷書・行書・草書という書の基本的な三体を用いた「破体」と呼ばれる奔放かつ豪壮なものであり、それは何よりもまず人間と世界に対して「義」を以って切り込む「武人」としての顔真卿を忌憚なく表現するものと思われた。顔真卿は唐の皇帝四代に仕え、楊貴妃に溺れる玄宗皇帝に対する反乱「安史の乱」(755)を鎮圧し、一時的にせよ唐王朝を救った忠君の一人でもあったのだ。

 だがそれだけとは思われなかった。彼の「破体」は精神性に満ちたものであり、そこに書かれた文字の気迫と奔放さ、そしてその大きさと自由さと美しさは、単に勇猛果敢な「武人」の書であることを超えて、人間と世界と歴史とに正面から対し、その内懐に毅然と切り込む真の「文人」としての姿勢と力をも持ったもの、芸術が本来その内に宿す「刃」、魂を切り裂く「刃の切っ先」そのものとさえ思われたのである。


楷書への興味

 「裵将軍詩」との出会いの後、私の興味は改めて顔真卿の「破体」を構成する三つの基本体、楷書と行書と草書のそれぞれに向かった。中でも私が魅かれたのは楷書であり、彼の初期の「多宝塔碑」(752、44歳)と晩年の「顔氏家廟碑」(780、72歳)の二つと向き合ったのだった。最初に記したように、自分の字の下手さをハッキリと自覚した私は、書道教室の先生の教え通り、字は少なくとも「丁寧に」、しかも「カナ釘流」で書くように心掛けていたこともあり、一字一字を少しも崩さずキチッと鋭利に刻む顔真卿の楷書が、まずは自分の心を落ち着かせてくれ、生に向かう姿勢を改めて自覚させてくれたのである。

    

                

     「多宝塔碑」より                  「顔氏家廟碑」より


 三十年近くを隔てて書かれたこれら二つの書は、一字一字をキチッと質実かつ鋭利に刻む「多宝塔碑」に対して、後者はその質実さと鋭利さに、更に丸みと大きさとが加わったもので、私に人間と世界と歴史の根底とは、正にこのような一点の誤魔化しも許さず、しかも円満雄大さを以って存在する世界であることを思わせるものであった。先に「裵将軍詩」の「破体」がドストエフスキイ的混沌を一気に断ち切る「刃の切っ先」としての力を持つように思われたと記したが、顔真卿の楷書とは、その断ち切られた混沌の先に開ける光の世界、実在の真相そのものを確として受け止め、それを静かにかつ雄渾に表現する力も持つと思われたのである。

 

「顔真卿字典」との出会い

 そのような時、書店で私の目に止まったのは二玄社から発行された『顔真卿字典』(石橋鯉城編、1992)であった。これは顔真卿が生涯に書いた文字全てを集め、年代・作品別に整理し、その一文字ごとに纏めて提示するという試みであり、しかも部首索引・総画索引・音訓索引なども付された画期的な労作である。この字典のお陰で、私は顔真卿の書について、それまで主に「裵将軍詩」と「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」の内に留まっていた視野を大きく広げられ、顔真卿が遺した文字それぞれの位置づけも、或る程度全体の中で見通すことが出来るようになったように思う。何よりもこの字典は、以下に記すように、一文字一文字が持つ多様性と豊かさに眼を啓かせてくれ、象形文字としての漢字を超えて、文字というものが本来表わす事物の本質について、深く思いを馳せることを促してくれたのである。

 この字典については、以下に「一」と、先の楷書とのつながりで「有」との二文字を挙げておこう。




  



「一碑一面貌」の豊かさと「永遠の生命」

 顔真卿の書は「一碑一面貌」と言われる。つまり彼が書いた「碑文」は一つとして同じ相貌のものがないばかりか、一字一字もまた決して同じでなく、それぞれが全く異なった相貌・個性として屹立しているということなのだ。ここに挙げた「一」にしても「有」にしても、この現実世界に於いては具体的な存在ではなく、抽象的な「概念」としてあるのだが、顔真卿はそれぞれを如何に多様で豊かな個性に満ちた相貌を以って刻んでいることか。これら数多くの「一」や「有」の一つ一つを、更に大きく拡大コピーして向き合う内に、私には「一」というものは決して一つでないこと、「有」もまた決して一つでないこと、だが「一」も「有」も共に、ただ多様さの内に己の姿を虚ろに霧散させてしまうものでなく、限りない多様さと豊かさを以って展開しつつ存在するもの、実在する活きた概念に他ならないと思うに至ったのである。つまり顔真卿にとっては、楷書も行書も草書も破体書も、全て彼の精神が捉えた実在の実相であり、それは堅固かつ鋭利で厳しく、しかも大きく円(まろ)やかで多様で豊かに活きたものであり、そして美しかったのだ。彼はそれを確かに捉え、文字として表現が出来る真の芸術家だったのだ。

 

 『顔真卿字典』からこのような認識を与えられた私は、ここから自ずと我々人間一人一人の個性の違いと崇高さ、つまりは存在が「有る」ことの絶対性について考えざるを得なかった。―― この地上に生を与えられた一木一草一花のどれ一つとして、また我々人間の誰一人として、決して無機質な同一の抽象的存在ということはなく、他の何を以ってしても代え難い個性を持って屹立しており、それぞれが全て豊かで美しく崇高であり、正に「永遠の生命」の内にあるのだと。顔真卿の字からも「永遠からの呼び声」が響いて来たのである。


 顔真卿について考えるべき事は多く、また書きたい事も多い。

彼の波乱に満ちた生涯とその性格・気質について、彼が生きた時代についても考えてみたい。先に記したように、彼は玄宗皇帝以降四代の皇帝に仕えた忠臣であり、李白や杜甫と同時代人であり、その頃日本からは最澄や空海などの遣唐使たちも長安を訪れている。また日本の文化・社会史における彼の役割、殊に禅宗や俳諧世界に於ける彼の影響についても追ってみたい。一言で言えば、卓越した「文人」としての顔真卿についてである。更にこの延長線上で、三嶋大社に建立された恩師の芭蕉句碑やドストエフスキイの書について、広くは書と芸術と宗教の関係について等々・・・これらは全て私の力に余るテーマばかりであるが、なお思索を続け、機会があれば少しでも記してみたいと思っている。

 日中間の断裂が深まった今、顔真卿の書一つからでも、両国間の理解と友情が新たに開ける可能性は大であろう。彼の書がそのような力を十分に秘めたものであると私は信じている。政治や経済に関わる人々にも、是非ここに目と心を向けて欲しいと思う。

                                       (了)











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