コラム
永遠からの呼び声(三)徽宗皇帝
永遠からの呼び声(三)徽宗皇帝
(1).「鶉水仙図」との出会い
20代、恩師に教えられた中国絵画、殊に元・宋時代の水墨画が表わす奥深い世界に魅せられた私は、神田神保町の古本屋街に行った際、高価でとても手に入らない画集は立ち読み(立ち見)をし、帰り際に店頭に並べられた廉価な古雑誌『白樺』を何冊か買い、そこに紹介された様々な西洋絵画と中国絵画を拡大コピーしては眺めていた。 前回取り上げた顔真卿の書は、まだ正面から意識されていなかった頃である。
鶉水仙図 日本 個人蔵
そのような中、私の心を強く打ったのは徽宗皇帝の「鶉(うずら)水仙図」である(「水仙鶉図」とも呼ばれる)。 徽宗皇帝の作品はしばしばその真贋が問題とされ、この絵も普通「伝徽宗」とされる。 私自身この「鶉水仙図」について、果たして彼自身の手になるものであるかどうか判断が出来なかった。 だがここに描かれた水仙の細長い葉、鶉の後方を右から伸びやかな円弧を描きつつ、先端近くでゆったりと捻じれる曲線 ―― 鶉の視線もこの葉の先端を、或いはその行く先を見詰めているかのようだが、私もこの葉を見詰めている内に、作者は誰かなどという問題は消えて、いつの間にか心に「永遠」という言葉が浮かんできたのだ。 今に至るまで「永遠」という言葉を巡って続く私の長い試行(思考)錯誤の旅。 その過程には言うも恥ずかしい的外れな「永遠」との出会いが満ち溢れている。 しかし私の人生に於いて、この「鶉水仙図」との出会いこそ「永遠」という言葉が自然に、しかも実感を以って意識された恐らくは初めての絵画体験であり、忘れ難い旅の一里塚となったのである。
子供の頃、なぜか私は細く長い葉が好きだった。 近所の友達たちと野山を駆け回っていた頃、土手に生える薄(すすき)とか川端の葦(あし)・萱(すげ)などの(我々子供たちは、これらを皆「カヤ」と呼んでいた)細長く鋭利な葉や茎を目にすると、それをむしっては振り回し続けて指を切ってしまい、母に叱られながら血の流れる傷口に包帯をして貰うことがしばしばだった。 英語ではこのような細長い葉のことを'blade'と呼ぶが、これは刀やナイフや剃刀の「刀身・刃」を指す言葉でもある。 だからと言って私は鋼鉄製の刀剣類に魅力を感じることはなく、今もそうだが、植物としての薄や葦や萱の葉のスッと伸びた長さと細さと鋭さに独特の魅力を感じるのである。
徽宗皇帝が描いた水仙。 鶉の右後ろに静かに伸びるその細長い葉は、刀やナイフや剃刀とは違い、柔らかな肌触りを感じさせる曲線が大きな特色であり魅力である。 大袈裟なようだが、今思うに、水仙の葉の細く長くゆったりとした円弧は、その柔らかな肌触りにも拘わらず、私の心に刀やナイフや剃刀よりも鋭い切り口を入れ、そこから「永遠」という言葉を忍び込ませたのだと言えようか。 この新鮮で鋭利な感覚と感動は今も私の内で消えない。
徽宗皇帝の「鶉水仙図」との出会い。 これは私に、水仙や薄や葦や萱などの細長い葉を持つ草花に限らず、およそ自然界にある全てが、つまりは一木一草一花のことごとくが「永遠」を、そして絶対の「美」を生きて表現する存在であることに気づかせてくれ、自分はこの事実にいくら敏感になってもなり過ぎることはないと自覚させてくれたのだった。 この「コラム」で私が意図的に自然について取り上げる理由も、一つはここにある。
(2).「桃鳩図」との出会い
桃鳩図 日本 個人蔵
20代から30代にかけて、私は妻や友人たちと出来るだけ音楽会や展覧会に出かけるよう心掛けていた。徽宗皇帝の「桃鳩(とうきゅう)図」と出会ったのも、その展覧会の一つである。そしてこの絵を通して、徽宗皇帝はまたも私に「永遠」という言葉を強く意識させたのである。
日本に渡来し、今では国宝となっている「桃鳩図」。この小さく愛らしい絵を前にして私は、これは幼な子の描く「童話」の世界だと感じさせられたのだった。鳩の胸も背も目も、そして鳩が止まる桃の木の枝も花も蕾も葉も、ここに描かれた全てが円やかであり、この円やかさは正に幼な子の無垢さと純真さに他ならず、「童心」がそのままこの世界に現れ出たと思われたのだ。しかもそれは「鴨水仙図」よりも穏やかで円満な形態と色彩によって表現されている。そして両者に共通するのは、誤魔化しのないリアリズムである。対象を真正面から凝視するリアリズムが根底に置かれた、穏やかで円満で高雅な形態と色彩。私にはこれが徽宗の世界、「童心」が脈打つ「童話」の世界に他ならず、ここに表現されたのは正に「永遠」の世界だと思われたのだ。
この時私の心に、この絵から与えられる言葉として「永遠」と共に、「目出度い」と「美」という二つの言葉も浮かんだのを覚えている。見る者の心を汚れや穢れや不安や絶望から解き放ち、心の底から平安と幸福と喜びの感覚を呼び起こしてくれるという意味での「永遠」であり、「目出度さ」であり、そして「美」である。大国・宋の支配者が描き出した見事な世界。私は皇帝徽宗と中国の測り知れぬ大きさと奥深さに心から驚かされたのだった。
当時の私はドストエフスキイとの取り組みに没頭していた。『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のイワンたちが激しく表現する「肯定と否定」・「光と闇」の分裂、殊に世界に満ちる悪や不条理を前に、この問題は果たして「肯定」・「光」の方向に解けるのか、途方に暮れていた頃である。「否定」と「闇」の一方で、ドストエフスキイが提示する絶対的「肯定」と「光」、その具体的存在としてのソーニャやゾシマ長老やアリョーシャたちを前にしても、私には「肯定」も「光」も未だ観念の次元で理解されるだけであり、それらが自分の内に沁み込んで血となり肉となり、活きた命となって動き出すことからは遠かったのだ。
そのような時、徽宗皇帝の「鶉水仙図」に続き「桃鳩図」と出会ったことは、私の背を前に強く押してくれたように思う。つまり徽宗皇帝により、「肯定」・「光」が水仙や鶉や桃や鳩などの身近な生き物の形態と色彩とを以って見事に示され、これらを導きとして私は、この世界に存在する悪や不条理の一方で、円やかで純真で崇高な美を備えた世界も確かに存在することに気づかされたのだ。私は徽宗皇帝が描いた鶉や鳩や水仙や桃などを、ドストエフスキイ世界のソーニャやゾシマ長老やアリョーシャたちと重ね、一木一草一花と善良な人々が宿す「永遠」や「目出度さ」や「美」について、次第しだいに納得させられていったのだった。30代、多くの人たちと同じく、私の生の歩みもそう容易にはゆかず、公私にわたって少なからぬ困難と苦しみに突き当たらざるを得なかった。しかしそのような中、ベートーヴェンの音楽や徽宗皇帝の絵画などは、端的直截に私の感性に訴え、大きな励ましと力を与えてくれたのである。
(3).「瑞鶴図」との出会い
40代も半ばを過ぎてからのことだ。私は新聞広告で、徽宗皇帝の「瑞鶴(ずいかく)図」の複製画が販売されることを知った。大きなカラー刷りの広告を見て、私はこの絵画世界の大きさに心から驚かされた。宋の都・開封の宮殿の上空に、突如「瑞雲」(目出度い雲)が立ち込め、人々が見上げていると二十羽の丹頂鶴が飛来し、驚く人々と宮殿を祝福するかのように舞い続けたという事実を基に、徽宗が描いたとされる「瑞鶴図」(目出度い群舞する鶴の図) ―― この「瑞鶴図」が表わすものは、基になったとされる事実の真偽は措いて、何よりもこの図を描いた徽宗皇帝の精神の大きさと、その精神が宿す永遠感と自由感であると思われた。少なからぬ苦労の末、私は複製画を手に入れ、これは30年後の今も私の部屋の真ん中に置かれている。
瑞鶴図 中国 瀋陽 遼寧省美術館
宮殿の正門・宣徳門の鴟尾(しゃちほこ)に舞い降り、しばし羽を休める二羽と、宮殿の上空を鳴きながら思い思いに舞う十八羽の鶴たち。――― 図柄は単純である。上に記したように。この事件(?)は開封の街に起き、人々はその吉兆に心を動かされ、遂には皇帝徽宗の制作に至ったとされる。そこには道教思想の影響も強いとされるようだが、実際の真偽は私には分からない。だがこの絵柄の単純さが、如何に卓越した技術と、如何に大きな精神を以って描かれているかは明かである。空に舞う鶴たちを描く徽宗の筆は、決して彼らを単調な一様の姿に凝固させることなく、個性を持った一羽一羽の鶴として、思い思いのままに空を羽ばたかせている。そして彼は二十羽の鶴たち全てを以って、見事な調和の下に、空という大空間を構成させているのだ。この青空を何の障害もなく、天のリズムに合わせるかのように(「奏節に応ずるが如し」、僧来復の詩) 大空を飛翔する鶴たちの姿を前にして、私は思った ――― ここには正に「自由」そのもの、「永遠」そのものが表現されているのではないか。そして人間と世界と歴史の奥には、つまり我々人間が目にする空の奥には、実はこのように大きく円やかなもう一つの大空が広がり、そこには天来の「奏節」(リズム)が響き、それに乗って自由と永遠の気が活き活きと息づいているのではないか・・・
以前この「コラム」で取り上げた石川啄木の歌も思い出される。「不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」―― 啄木の童心が吸い込まれたのも、この大空だったのではないか。また芭蕉の存疑句とされる「蝶鳥(ちょうとり)の知らぬ花あり秋の空」―― この詩人が見つめていたのも、正にこの大空だったのではないか・・・「瑞鶴図」を前に、私の思いも様々に羽ばたく。
大空を舞う鶴たちの一部である。的確なリアリズムによって捉えられた彼らの形態が、ただ青い空を飛ぶ鳥たちであることを超えて、まるで天から下った聖霊とはこれであると言うかのように、この世ならぬ自由の空間を飛翔する姿を示し、どの一部をとっても完璧に構成された高雅な美の世界である。改めて徽宗の精神の並外れた大きさと卓越した腕を思わざるを得ない。
(4).「風流天子」徽宗の「闇」
—「愚帝」徽宗 —
最後に、徽宗の「光」に対し、「闇」についても取り上げねばならない。
今まで記してきたように、徽宗皇帝の精神の大きさと高雅さは、未熟な私に「永遠」や「自由」という概念を、確かなリアリティを以って無理なく自然に実感させてくれたのだった。つまり彼が示す「永遠」や「自由」とは、決して抽象的で観念的で高踏的な概念などではなく、鶉や水仙や桃や鳩や空を舞う鶴など、自然界に存在するごくありふれた生物たちの姿を、極めて正確な観察を基にリアルに描くことから表現される極めて具体的・即物的な感覚なのである。しかもそれらが示す「永遠感」や「自由感」は、「円やかさ」とか「円満さ」、「純真さ」とか「童心」、更には「目出度さ」や「美」などの言葉と感覚をも自然に呼び起こし、見る者の心を地上高くに飛翔させ、深い平安や幸福や喜びの感覚で満たしてくれるのだ。
ところが周知のように、中国の歴史に於いては、この徽宗皇帝とは稀に見る「暗愚の皇帝」として極めて悪名高い存在なのだ。世界に誇るべき絵画の傑作を生み出した天才画人であるばかりか、痩金体という独自の書体も創り出した書の達人でもある徽宗。卓越した鑑賞眼を持ち、名石を集めた庭園や美術工芸の名品の莫大な収集家でもあり、かつ美術教育制度の創始者としての徽宗。――「風流天子」と称されたこの天才芸術家が、政治的手腕に於いては奸臣・蔡京や宦官・童貫らに操られ、自らが統治する大国・宋の各地に反乱を勃発させ、遂には漢民族が長い間統治してきた中華大帝国を滅亡に導いた「暗君」として極めて評価が低く、むしろ軽蔑と嘲笑さえ以って扱われる存在なのだ。殊に宋の国を脅かし続けた北方異民族の遼や金との駆け引きに於いて、寵臣たちと共に皇帝徽宗が演じた無能で無様な役割は、中国史に於ける最も恥ずべき悲惨な大失態の一つとされているのである。
皇帝としての徽宗が打ち出した様々な政策の内には、殊に統治初期のものには、福祉政策を始めとして高く評価されるものも少なくないとされる。だが彼が税の増収のために土地計量の尺度を誤魔化し(楽尺)、民衆から大搾取を行ったという事実一つからしても、彼への評価は負に転じざるを得ず、彼の芸術への愛と才能とは何であったのか、我々は考えざるを得ない。中国国民が愛する『三国志』に於いて、梁山泊に集まる義賊たちに対し、「道君皇帝」として登場する徽宗は、女色に溺れ奸臣たちに操られ、民を疲弊させ不平と不満の内に追いやる暗君でしかなく、後世に残る芸術的天才としての姿とは程遠いのである。
世俗的基準からしては役立たず。それどころか臣民を平然と踏みにじって搾取し、ひたすら自らの趣味に生きる天上人。支配者としては無能。女色に溺れ、悪しき寵臣たちと共に民を不平・不安・反乱の内に追いやり、遂には中華大帝国を滅亡にまで至らせてしまった暗愚の皇帝。しかしその役立たずさや統治者としての無能さは否定出来なくとも、他方で人間と世界の根底に存在する美や平安や喜び、更には永遠や自由を誰よりも見事に表現し得た天才。 暗愚と童心の共存。 ――― 徽宗皇帝はこの厄介なダブル・スタンダード、矛盾・逆説を身を以って生きた人間として、終末論的混沌と戦乱の内にある現代世界に於いて、プラトンが『国家論』で説いた「哲人王」について改めて思い起こさせるのを始め、私に強い刺激を与えるばかりか、今も思索を迫り続ける存在である。
(了)
★今回の図版は以下のサイトから使わせて頂きました。
・「鶉水仙図」、Art & Bell by Tora
「中国王朝 よみがえる伝説 第三部 徽宗と水仙鴨」
・「桃鳩図」、 いづつやの文化記号「徽宗の桃鳩図」
「世界美術全集東洋編 6 南宋」
・「瑞鶴図」、ほしがらす「川崎美術館展 徽宗皇帝の花鳥図」
「世界美術全集東洋編 6 南宋」